マリアと別れてからも川辺の柵にもたれ、水の流れを見つめていた。知らないうちにあの白いシャツはもう取り込まれている。随分と長い時間そうしていた。一口だけ飲んだ梅サワーの酔いが、まだ全身を駆け巡っている。
逆算をすれば……自分の精神が抑圧されていたことに気づく。
嘘の会話をしただけなのに。機関銃のようなお喋りを聞いていただけなのに。心が軽くなっていた。それはつまり片目を失ったショックと得体の知れない謎に、自分が押しつぶされていた証拠だった。逆算。俺はこの状況に打ちのめされている。
冷静になって振り返る。
何のために? こんな利用価値のない男に、あいつらは、どうして?
俺はなんらかの権利を放棄しただろうか? いや印鑑は押していない。サインすらしていない。ただ診察を受け、少々の血を抜かれ、くだらない話を聞き、夢を見て、金を得た。
くどくどと蝶の目がどうとか言っていた。蝶の目ってなんだ?
欠損した片目を隠すためのサングラスは漆黒で、だからこそ川面の煌めきだけが、はっきりと見て取れる。川風にも飽きてきた。体力の弱った肉体から熱を奪っていくようだった。
さっきまで解決の糸口がまだあると思っていた。だがよく考えてみれば、そいつ等を探し出したとして、目的を知ったとして、俺になにが出来る? ひも野郎からもぎ取った金も予想外に目減りしている。盗みでも働かない限り、その日暮らしの俺にはそんなはした金でさえ返す当てもない……
休憩中なのだろう。先ほどマリアといた飲み屋の従業員が歩きながらタバコの煙を川風に流している。人の良さそうな顔からなにか言葉が吐かれ、根掘り葉掘り聞かれるまえに微笑みだけ浮かべ、その場をあとにした。それくらいの処世は心得ている。
歩き出せば気持ちがほぐれ、新宿にでも行ってみようとふいに思った。バラックに帰る気にはまだなれない。
新宿は施設を抜け出してから三番目の街。スカウトの真似事をして警察官には恫喝され、チンピラには始終、小突かれた。ただ裏路地に安くて旨い定食屋がある。金を返すのをあきらめたら、一週間や二週間は優雅に暮らせるだろう。
そこは昼食を求めるサラリーマンは疎か、明け方のホストが酔い覚ましにアサリの味噌汁を求めて行列を作るような店だった。店主はいつ寝ているのか不思議に思う程の働き者で、その人柄を慕ってか、荒い男達もその店では大人しく飯を食っていた。
定食はもちろん安くて旨いが………………舌の先に記憶がよみがえる。
そのまま電車で向かった。だが上向きかけてきた気分は、すぐに沈むこととなる。
【店主の体調が思わしくなく、しばらく閉店いたします】
ガーーーーーーーン。
俺らしいと言えば俺らしい。まったくついていない。すでに名物の焼きそばの口になっていたが、チカチカと瞬く風俗の看板を眺めるしかなくなった。カリスマの焼きそば。すこしだけ充実して、すこしだけ人間らしい気持ちになれた、数少ない場所。
思い出の味。
「金なんか持ってなさそうだぜ?」
「いやいや、あのサングラスはブランドものだよ。かなり高いはず。見かけによらずもってそうよ?」
「とりあえず殴ってから確認すりゃいいじゃん」
一瞬だけ昔の知り合いに見つかったのかと思った。だが俺のことなんか、もうこの街は忘れている。その連中は初めて見る顔だった。
弱り目に祟り目とはまさにこのことだ……