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第8話 騙されやすいマリア


 東京も川のそばなら悪くないと、俺はそう思う。

 風に色があるならば、川風はあえての無色だろう。けして人を不快にはさせない。

 空は夕暮れから次第に藍色に移ろいゆく。そんな中、さらに濃いサングラス越しに微かに見える、遠くのベランダに取り残された、白いシャツがそよぐ。


 N・マリア嬢は、冷えたホッピーで喉をゴクゴクと鳴らしている。

 再開発の後でも取り残されたように、間口がハーモニカみたいな形状の飲み屋街がそこにはあった。やはり川の側だからかもしれない。


「なるほどぅ、そんなことがあったんですかぁ、ぷはー」

 この子、だまされやすい! ……とてもだまされやすい! 

 もっと警戒されるかと思ったが、運の良いことにビルに俺が初めて行った日も俺を見ていたらしく、


「妹が借金作って……やくざに追われてそれで弁護士に相談したんだよ。それがさ、今日、ビルに行ったらその弁護士事務所がないって…………そうなんだ。アフリカのことわざに……もうどうしていいか……存在しないって変だよね……国家的陰謀?……そうなんだ。妹は不治の病で……どうしても君の協力が必要なんだ」


 俺の必死の作り話を信じてくれた。


 アンドロイドの受付嬢とロボットの警備員。その中に一人だけ人間がいた。俺にはそう見えた。灰色の空間に唯一、色つきで存在していた彼女のネームプレートには、

(N・マリア)。


青天目なばためなんて名字、誰も読めないし、なばためマリアって並ぶと何がなんだかわからないでしょ? せめて下の名前だけでも読み易くっておじいちゃんが付けてくれたんだけど……で、N・マリアなら帰国子女っぽくていいだろうって上司が……」

 焼きとんの串を頬張りながら、洪水のように個人情報をはき出している。

 短大を出て就職したての二十歳。自分より年上だが、ミニスカートからむっちりと伸びる太もも以外は顔も童顔で邪気がない。この警戒心のなさが、彼女だけ色つきに見えた理由だろう。この子に迷惑をかけるわけにはいかない。

 ただどうしても、奴らの正体だけは突き止めねばならなかった。かけられた呪いを解く必要がある。片目が残っているうちに……


「そもそも58階なんて存在しないの」

「存在しない?」

「60階あるビルなんて、それこそサンシャイン60とか、大阪だとハルカスちゃん。横浜ランドマークタワー様だけは驚異の70階。私、高層ビルマニアなの」

「いやだって、58階は有名なアパレル企業が……」

「中層階を分割して、エレベーターが止まる階数を便宜上、表示してあるだけなの。ビル全体では屋上入れて45階だから40階くらいになるのかしら? ホームページも全然、更新してなくていいかげん。あぁ~、就職失敗しちゃったな。外観は綺麗でも内部はぐちゃぐちゃ。違法建築の噂もあるし……でも変ね、58階に止まったのなら場所は間違いないはずなのよ。アパレル不況で会社は潰れそうだけど、誰もいなくても倉庫にはなってたはず。お洋服見に行ったことあるもん」

 マリアの飲み物は梅サワーに変わっている。俺は相変わらず水だ。水と焼きとん。


 あんな近代的なビルがそんな状態なのか? 見上げる人間を威圧するかのような、鏡面のビルディング。……それと大企業なんてものは未来永劫、潰れたりしないものだと思っていた……どれも俺なんかに一生、手の届かない、おとぎの国。


 俺は頭をふった。


 ともかく物事の真相なんてこの際どうでもいい。無人に近いオフィスを改造して、弁護士事務所を装い、俺をめた。目的はわからないが流れの詐欺師にそんなことはできっこない。あのビルの関係者か、それができる立場の人間なのは確かだ。


「ネクタイも締めずに受付に来るからヒロユキ君すっごく目立ってた。それが上層階に案内されたじゃない。だから私も覚えてたんだけど、今日は今日で追い返されて、先輩に聞いても理由は言わないし……あやしいのよね。あ~ぁ、就職失敗したかな。派遣じゃないからビルの移動もないし、会社うさんくさいし、ビルマニアとしては、いろんなビルがみたいじゃない? 転職しよっかなぁ。どう思う? ヒロユキ君」



 暗闇の中、あの白いシャツは、まだ風にゆれている。


 マリアは調べた内容を報告するよう約束してくれた。


 ふらつく足取りで、今から2時間かけて茨城に帰る。



「妹さんの病気が早く良くなるように私も祈ってるぜぃ!」

 マリアはやっぱり騙されやすい。










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