『きゃっ!』
『あ、悪い!』
とっさに女の子の腕を引いて、尻餅をつかないようにする。
反動で俺の胸に飛び込んでくる形になった女の子からは、ふわっと甘く爽やかな花の香りがした。
キレイな髪と、良い匂いと。
驚いて見開かれた大きな茶色の目には、同じく驚いた顔の俺が映ってた。
白い肌に頬がほんのりピンクに染まってて……かわいくて見蕩れた。
『今度はどっち行った!?』
『っ!』
俺を追いかけて来てた連中の声がして、一気に現実に引き戻される。
逃げねぇと。
そう思ったと同時に袖を引かれた。
『こっち』
桃色の髪の女の子は、そのまま俺をパーティーの休憩室に匿ってくれた。
『確かさっき救急箱を見た気が……』
部屋の中から救急箱を探し出して、手当てもしれくれて。
優しくケガしたところに触れて、目を閉じる。
『早く治りますように』
『あんた……』
心から願うように祈ってくれたその子は、とてもキレイだった……。
きっと、このときにはもう心奪われてた。
俺は一目惚れしたんだ、桃色の髪の女の子――モモに。
だから、俺はSをモモに預けた。
どっちにしろ甲野は俺を――Sを諦めない。
Sがある限り、Nの催眠効果が消される可能性は消えないから。
なら、俺がSを持っていたらいずれは奪われる。
それを防ぐには一先ず別の場所に隠すしかない。
モモに預けて、巻き込んでしまうんじゃ無いかって心配はあった。
でも他に頼めそうな人はいなかったし……。
それに、ちょっとだけこれでモモとまた会う口実が出来るって欲もあった。
そんな欲を出してしまった俺は、この頃からワルい男だったのかもしれない。
とにかく頼み込んでモモにSを預かって貰って、俺はまた逃げ回った。
でも案の定捕まってしまって……。
『Sはどこにある?』
冷たく、感情のこもらない声が問い掛ける。
『知らねぇよ』
実際、モモの名前すら聞いてなかった俺はSが今どこにあるのかなんてわからなかった。
俺が捕まった頃には、あのホテルのパーティーはお開きになってたから。
Sの行方がわからない以上、殺されるなんてこともないはずだ。
賭けのような予測だけど、それは当たってた。
多少殴られはしたけど、甲野は俺を殺すような命令はしなかったから。
でも。
『そういえば少しだけピンク色の髪の娘と一緒にいなかったか?』
俺を追いかけていた男の一人が、思い出したように口を開いた。
『っ!?』
見られてたのか!?
俺も思わず反応してしまったのが悪かった。
甲野は『ふむ……』と軽く顎を撫でて、少しだけ肩頬を上げる。
『ではその娘が持っている可能性が高いな。あのパーティーの主催者に参加者リストを提示するよう伝えておけ』
『くっ!』
『ピンク色の髪というなら目立つだろう。すぐに見つかる』
モモが見られていた可能性を考慮していなかった。
本当に、二年前の俺は考えが甘い。
モモを巻き込んだことを後悔し始めた俺に、甲野は笑って告げる。
『笙から聞いたぞ? お前は父親に南香薔薇の栽培場所の認証登録をしてもらっていたそうだな?……父親に何かあったとき、代わりにSを使えるようにと』
『……何が言いたい?』
『栽培場所に行くための認証登録をしていたのは、お前とお前の父親たち二人だけだったのだ。こちらの者も登録しようとしたのだが、中に入らないと登録は出来ないようでな……困っていたのだ』
つまり、俺を使って認証するってことだろう。
少なくとも利用価値があると見られてるなら殺されることはない。
そう安堵していたのも束の間。
『陽、お前には私の手駒になってもらう。余計なことを仕出かさないように記憶を消して、な』
『は?』
甲野が何を言っているのか理解出来ない。
そんな俺から笙に視線を向けた甲野は、感情の無い声で命じる。
『笙、やれ』
『っ!……はい』
少し迷いのある顔で、でも躊躇うことなく笙は小瓶を取り出して中の液体を布に染みこませた。
『笙? おい、なにするつもりだよ?』
『……』
罪悪感でいっぱいの目をしておきながら、笙は止まらない。
『クソッ! 離せ!』
俺を押さえつけている男たちから逃れようと暴れるけど、まだ体が出来上がってないコドモの俺が大人に力で敵うわけが無かった。
髪も掴まれて、頭が動かせないようにされる。
『ごめんな……陽』
今にも泣きそうな顔で謝罪の言葉を口にした笙は、手に持った布で俺の口と鼻を塞いだ。
泣きてぇのは俺の方だっての!
そんな文句も言えず、俺の嗅覚はピリリとスパイシーな花の香りを感知した。
むせかえるような、薔薇の香り。
『忘れろ、陽。……全部、忘れろ』
ボーッとしてくる頭の中に笙の声だけが響いた。
忘れろと繰り返す声に、頭の中が徐々に白くなっていくような感覚がする。
強い薔薇の香りにクラクラして……こんなのより、もっと優しくて甘い香りが良いなと思った。
そう、ほんの少し前に嗅いだ……爽やかで甘い花の香りみたいな……。
そこで意識を失った俺は、次に目を覚ましたときには自分や周りのことをなにも覚えていなかった。
***
ゆっくり目を開けると、見慣れない天井が真っ先に見える。
白いカーテンも見えて、俺はもう一度目を閉じ直前の記憶を思い起こした。
……そうだ、バカな不良たちを伸してモモに手当てして貰って。
そこから移動した覚えが無いから、あのまま意識を手放してしまったらしい。
「お? 起きたか陽」
「……なんでモモじゃねぇんだよ」
声が掛けられて、覗き込んできた久斗の顔を見てつい文句を言ってしまった。
「うっせ、悪かったな。でも俺がお前をここまで運んだんだぞ? 少しは感謝しろよ」
「そっか、悪ぃ。ありがとな」
確かにモモの力じゃあ俺を運ぶなんて無理だったろうからな。
久斗はたまに暑苦しくて面倒くさい奴だけど、今は素直に感謝しておいた。
「藤沼は今親に車出してもらえるよう電話してんだよ。すぐ戻ってくるだろ」
「ああ、わかった」
返事をして、ふぅーと息を吐きながらまた目を閉じる。
早くモモに会いたい。
記憶を取り戻して、俺にとってモモがどれほど大事な存在なのか実感した。
一目惚れした相手。
その相手の匂いに誘われて、また好きになった。
好きが二倍になったようなこの感覚をどう消化すれば良いのかわからない。
とにかく早くモモに抱きついて、その香りと存在を感じたかった。