「じゃあ、私久斗に付き添うね。ありがとう萌々香」
まだ不安そうな顔をした景子は、そう言って加藤くんが乗せられた救急車に乗り込んでいった。
加藤くんがNを使われたと判断したあと、私はすぐに医療機関に電話したんだ。
人を意のままに操る香り・通称N。
はじめにそれを知ったのはたまたまだった。
薔薇の香りが好きで、たまにネットで調べている私。
『Nと呼ばれている、人を意のままに操る香りがある』
薔薇の香りがするというそれの記述を見つけて、そのまま調べ始めた。
Nは、甘さの中にスパイシーな香りが際立つ独特な薔薇の香り。
強い催眠効果で、嗅がせた相手を意のままに操ることが出来る。
変な副作用とかはないけれど、だからこそ使われても気づきにくい。
はじめは少しボーッとする程度だから気づけないし、操られ始めても自分で決めたことだと思っているから気づけない。
本人が絶対にしないって思っていることを命じられて、拒否反応からやっとおかしいって気づくらしい。
正にさっきの加藤くんの状態と一致していた。
調べていて見つけた、みすず市のHPに記載されていた注意喚起。
『Nが使われたと思われる人を見つけたら速やかに医療機関へお知らせ下さい。N使用者の可能性ありとお伝えください』
それがあっても正直本当にそんなものがあるの? って疑問だった。
でも、実際に加藤くんはおかしくなってて、近くの大きな病院に連絡したら速やかに救急車が手配された。
治療法は生花の薔薇の香りを嗅がせるだとか、Nの香りを忘れるくらいの刺激臭を嗅がせるとか眉唾なことしか書かれていなかったけど……。
「加藤くん、大丈夫だよね?」
サイレンを鳴らしながら走り去っていく救急車を見送りながら呟いた。
救急車が見えなくなって、野次馬もいなくなってきてから私は歩き出す。
日も沈みかけていて、空は薄暗くなってきてる。
完全に夜となる前に街を出なきゃ。
……でも、Nが本当にあったってことはあの噂も本当なのかな?
Nという名称の由来は作られている街の名前で、それがここ、南香街だという噂。
今は立ち入り禁止区域になっている南香街の南側は、昔は研究施設だったからそんな噂になったんだと思う。
「……本当に、ここで作られているのかな?」
疑問の呟きと一緒に、一度南側へと顔を向ける。
そしたら、とても見覚えのある金色が見えた。
「っ、え? 陽?」
制服じゃなくて黒いスーツを着ていたから一瞬見間違いかと思ったけれど、それは確かに陽だった。
なんで? どうして陽がこんな時間に南香街にいるの?
しかも、彼は南側へ向かっている。
私みたいに何か用事があって街に来て、夜になる前に帰るって感じじゃない。
どこに行くの?
太陽みたいな笑顔をする陽が、沈んでいく夕日と同じように見えなくなっていく。
闇へと進んで行っている様に見えて、胸がザワザワした。
もしかしたら、陽も加藤くんみたいに誰かに操られているのかもしれない。
それか、陽の言っていたやらなきゃないことっていうのが南香街ですることなのか。
迷ったのは一瞬。
帰らないと、という思いより陽への不安と興味が
きっと危ない目に遭う。
そんな予感もあったのに、私は陽を追いかけるという選択をした。
***
陽は街の奥、禁止区域である南側へと迷いなく進んでいく。
人も少なくなって、きっと大きな声で呼べば気づいてもらえる。
でも、いつもと少し雰囲気の違う陽に声を掛けるのは躊躇ってしまう。
いつも明るくて人なつっこい陽。
自然と人が集まるような人気者。
けれど今は、いつもの明るさがないような気がする。
人を寄せ付けないオーラがあるって言うか、それでいて人を引きつけるカリスマみたいなものも感じるというか……。
陽、なんだよね?
同じ顔をした別の人間と言われた方がしっくりするけれど、ここまでそっくりなんて一卵性の双子でもない限りあり得ないんじゃないかな?
別人かも、と思ったけれどやっぱりそれはなさそう。
だからそのまま尾行するようについて行った。
着いたのは大きな立入禁止の看板が掛けられたフェンスの前。
まさか、ここを飛び越えて行っちゃうとか?
なんて思ったけれど、陽はフェンス沿いに右の方へと歩いて行く。
林に隠れた方へ向かった陽を慌てて追いかけたけれど、見失ってしまった。
「どこに……? こんなところまで来て帰ったってことはないだろうし……ん?」
フェンス沿いに進んでいくと、人が出入りするためのフェンスドアがあった。
しかも、取り付けられている鍵は開いている。
もしかして、ここから中に入った?
「……」
中に入ってみて陽を探すか、引き返して帰るか。
賢い選択肢は帰ることだ。
きっと、今ならまだ危険な目に遭わずに帰れる可能性が高い。
それが、分かっていたのに……。
ふわっと、陽が通った軌跡のように薔薇の香りがした。
私が好んで使っている爽やかなタイプのものじゃない。
Nのような、スパイシーさが際立つ独特の香りでもない。
いつも陽から香ってくる、薔薇らしい甘いゴージャスな香り。
その香りを感じた途端、ほとんど無意識に私はフェンスのドアをくぐっていた。