目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報
エピローグ 旅立ち

 年が明けて二ヶ月が経ち、暦は弥生となっていた。


 私は今日、北千住を出る。あれから『サイバード』を解雇された私は、ロッカーの中に入っていた私物まで郵送で実家に送られるという、二度とここに来るなという意味の対応をされた。私は返事が来ないことを覚悟の上で、謝罪の手紙を書き、店長と有紗先輩宛てに送った。やはり返事は来なかった。


 それから両親に頼み込み、いくらかの資金援助を受けた私は、街を去って新生活を始める。母親は三人で暮らした方が私のためにもいいと主張したが、父親のほうが、一度外に出たほうがいいだろうと言ってくれたので、こうなった。


 転居先では四月から、小さな包装会社の事務職を務めることになった。学歴も資格も経験もないのによく雇ってくれたものだと思うが、とにかくいまは若い人がいないから、という理由だった。つまりなにも期待をされてはいないわけだが、けれども、ここから先は私次第だと思う。


 間もなく引っ越しの業者さんがやって来る。私は家の外に出て、業者さんを待っていた。荷物を託し、業者さんの軽トラックに同乗して、そのまま引っ越すつもりだ。


 恐らくもう、この街に定住することはないだろう。両親は変わらず住み続けるのだから、戻ってくることはあるかもしれないが。


 言葉にできない哀しみを胸に秘め、私は空を見上げた。


 三月になるというのに、相変わらず鉛色の空が広がっている。霧かもやでもかかったみたいだ。どうやら太陽は、私の旅立ちを祝福してはくれないらしい。……


「やあ、汐見さん」


 そのときだった。

 突然、聞き覚えのある声が背中から聞こえて、私は振り返った。


「間に合いましたよ。今日、引っ越しの予定でしたよね。ははっ、間に合ってよかった」

「黒葛川先生。……有紗先輩」


 事件以来、ご無沙汰だった有紗先輩が、黒葛川幸平の隣にいる。ちょっと照れたように「おす」と手を挙げた。


「来ようかどうか、迷ったんだけれど。ほら、わたしなんかが行って、門出を嫌な気分にさせたら悪いかなって。でも、黒葛川さんから是非行こうって誘われて、さ」


「そんなことありません。嫌な気分だなんて。私こそ、先輩に酷いことを」


「ああ、その話はもうおしまいにしようよ。謝ってくれたから、もうそれでおしまい。ね。わたしも手紙の返事を書かなきゃいけなかったんだけれど、どう書いたらいいか分からなくて。謝罪の手紙に返事を書くなんて経験、全然ないしさ。そもそもわたしって、秋に嫌われていたのかな、謝罪に返事をするのもおかしいのかなって思っていたら、つい」


 ああ、そう言われたら。

 謝罪の手紙を直筆で送られるなんて経験、確かにほとんどの人はしたことがないだろう。それで戸惑いを感じる先輩の気持ちも、いまならよく分かる。


「嫌いじゃありません。嫌いだなんて、私。私こそ、本当に、本当に愚かで」


「いいの、いいの。もうそれで充分よ。だから、顔を上げてよ。わたしだって、昔、人を傷つけてしまったことがあるんやし。みんな、そういうもんよ。次から気を付けたらそれでいいよ。そうしてくれんと、わたしだって苦しくなるし。……」


「ははっ、まあ、そういうことです、汐見さん」


 黒葛川幸平が、ニコニコ笑いながら私たちの間に入って、


「瀬沼さんの言う通り、もうその話はいいでしょう。汐見さん、新しい職場でも頑張ってください。応援しています。大丈夫。……自分史をたくさん執筆した僕の経験から言いますが、ええ、月並みですがね、人生、悪いことばかりじゃありません。必ず、良いことも起こるんです。本人に、幸せになろうという意思さえあれば、必ず」


「私は幸せになれるんでしょうか。幸せになる価値があるんでしょうか」


「汐見さん、他人に対して、そんな酷いこと、言えますか? 君には幸せになる価値があるのか、なんて。言えないでしょう。だったら自分に対して言ってもだめですよ。自分だってひとりの人間なんですから」


 そのとき私は、思わず顔を伏せた。

 黒葛川幸平の言葉が、春の風のように、胸の中に沁みていく。


「辛いことがあったら思い出してください。あなたの旅立ちを祝福する人間が、ここにこうして、二人、確かに存在したことを」


「はい。……はい……」


 私は眼をこすった。こすりたくて、たまらなかった。

 私の旅立ちを、太陽は祝ってくれずとも、人間が祝ってくれたのだ。覚えるのであれば、恨みや憎しみよりも、嬉しさと祝福を覚えていきたい。これからはそうやって生きていきたい。少しでも、少しでも。


「それで自分史ですが。ようやく、ほとんど完成致しました。お待たせして申し訳ありません。原稿は今夜、最終チェックをしてから、汐見さんのメールに添付してお送りしますので、お手すきのときに読んでから、返事をください。あの原稿でよろしければ、出版作業に入ります。自費というお話でしたが、これは貴重な記録でもあるので、知り合いの編集さんに話をしてみますよ。うまくいけば出版、印税が入りますよ、ははっ」


「私のメールに。分かりました、必ず読みます。出版なんて、そんな――世に出すことができたら、もうそれだけで充分ですから。ええと、そう、読んだら返事はすぐにします」


「ははっ、それほど急がなくても大丈夫ですが」


「急ぎます。急ぎますとも、なんといっても自分の歴史なんですから」


 そう、私が黒葛川幸平に依頼したのは、私の自分史だった。


 構成は上下巻となった。上巻は私が生まれたときから、『サイバード』にアルバイトで入るまで。

 下巻は今回の事件をまとめてもらったものだ。私が有紗先輩に、長門うさぎのアカウントが炎上していることを伝えるシーンから始まる。ラストシーンは私が喫茶店で、黒葛川幸平と対話するシーンで終わる予定だ。下巻のタイトルは、中学生のころに図書室で読んだ芥川龍之介の作品からちょっと拝借して『ある過ちを犯した阿呆な女の半生』にしてくれと頼んだが、さてどうなっただろう。今夜送られてくる予定の最終原稿が楽しみだ。


 長門うさぎの人生を自分史にはしたくなくなった。考えてみれば、憎くてたまらない人間のことを、主人公として歴史に残そうとするなど、馬鹿馬鹿しいことではないか。私が残すのであれば、私の人生であるべきだ。私の過去の苦しみも、過ちも、すべて、私の歴史なのだ。残すのであれば、私が、私の物語を残すべきなのだ。私の愚かなところを開示することで、少しでも、世間の人々が、私のようになるまいとしてくれたら幸いなのだ。そう思ったのだ……。


 けれど自分の歴史を改めて振り返って、改めて思うのだが、長門うさぎはあの『清瀬荘』に、自分の写真やアルバムなどを少しも残していなかった。また、私が黒葛川幸平に見せたDMの数々は私が書いたものだが、情報の内容はほとんど真実なのだ。思えば長門うさぎも、私が憎しみを延々と抱き続けるまでもなく、どこか絶望を背負った人生だったのかもしれない。陽気で強気な有紗先輩にも、決して明るくない過去があったように。万を超えるフォロワーがいても、事件が報道されるまで、誰も長門うさぎの死には気付かなかった。『ファリーナ』で何度も飲み交わしたであろう、あの三人衆だって、亡くなったうさぎのことを悼みもしていなかった。


 ネットはもう、事件のことなど忘れたかのように、いまの流行を追っている。私のSNSに返事や情報をくれる人も、もういない。こうして考えを進めると、長門うさぎとはなんだったのか、少し複雑な気分にもなる。もちろん私はいまとなっても、長門への恨みを綺麗さっぱり忘れることなどできないし、理解を示せるわけでもないが……。


「でも、下巻はともかく、上巻の原稿は書いていて面白くなかったでしょう。私の人生、別にドラマがあったわけではないから」


「そんなことはありません。面白くない人生など、この世にひとつもありません。それは自分史の代筆家として、自信をもって断言できます」


「黒葛川さんはプロだから。その言葉を信用しなさいよ。ね?」


 有紗先輩が白い歯を見せた。私は小さくうなずいた。


「私、自分史を出すなんて、事件の前は考えたこともありませんでした。そんな立派な自分だなんて、思ったこともなかったので」


「どんな人にだって自分がある。自分はここにいる、と叫び抜きたい一瞬がある。立派な自分をお持ちなんです。僕はその、叫びたい人の伴走者でありたいのです。また何年か、何十年か経って、改めて自分史を代筆してほしいと思ったら、黒葛川幸平にご依頼ください。お待ちしています」


「……次は、殺人事件と関わらない自分史を代筆してほしいですね」


 私は、思わず笑いながら口にした。

 こんな風に笑えたのは、いつ以来だろう。


「ごもっともです」


 黒葛川幸平も、ニコニコ笑った。


「……ところで、本当に原稿は黒葛川先生の名前でなく、私の名前で出すんですか?」


「もちろん。僕は代筆屋ですからね。自分の名前は出しませんよ」


「出したら、名探偵として世間にもっと名前が知れるのに」


「僕は名乗りませんよ。僕の役割はただ書き残すこと。それだけなんです」


 それがおそらく、黒葛川幸平の矜恃なのだろう。

 黒葛川幸平はその名前を決して表には出さないのだ。

 それが自分の、この世で果たすべき役割だというように。


 私にも見つかるだろうか。

 彼のように、自分がこの世界の中で果たすべき役割が。


 やがて業者さんの軽トラがやってきた。荷物はそれほど多くないので、業者さんがすべて、軽トラに運び入れてくれた。その途中で両親が家から出てきて、自分史を作る過程ですでに顔見知りとなった黒葛川幸平とあいさつを交わす。


 引っ越しの準備が終わった。

 私は、軽トラの助手席に向かいながら、


「それじゃ、お父さん、お母さん。有紗先輩。……黒葛川先生。いってきます」


 誰もが手を振ってくれた。空に広がる雲は相変わらず低く、けれどもゆるやかな春風が吹いてきた。

 私は助手席に座り込む。軽トラが東に向かって走り出す。業者さんによろしくお願いしますと伝えつつ、運転席から見えないように、私はそっと、自分の両手指を重ね合わせ、今日という日の旅立ちの悦びだけは、終生忘れまいと心に誓った。


(了)




※この自分史は事実を基にして小説風にしたものです。また、黒葛川幸平氏は実在の人物ですがこれは作中における仮名であり、本名はついに最後まで名乗りませんでした。



コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?