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第二十三話 憎しみと怒りは、まだ心の奥底でくすぶっている

 黒葛川幸平が手を挙げた。店員がやってきた。

 彼はホットカフェラテを頼んだ。カフェラテはすぐにテーブルに届いた。


「どうぞ」


 黒葛川幸平は、そっと勧めてきた。

 私は激しくかぶりを振った。飲み物なんて口にする余裕はない。何度も何度も首を振った。

 黒葛川幸平は、落ち着いた声で、


「ありがとうございます。あなたのお気持ちや、過去、計画はこれで分かりました。辛い、とても辛い過去をお持ちでしたね。……けれどもあなたは、今回の事件において、ひとつ、決してやってはならないことをしました。瀬沼さんを傷つけたことです。あの人を手紙で脅したことです。長門さんの一件は復讐という大義があったかもしれないが、瀬沼さんはあなたになにもしていない。それなのにあなたは脅した。許されないことだと思います」


 がん、と頭を殴られたような気持ちになった。私はずっと、自分は被害者だと思いながら人生を送ってきたのが、ここにきて、確かに加害者になってしまったのだ。


 そう、『サイバード』で働く有紗先輩を脅したのは私だ。

 二回目の脅迫は間違いなく、私がやってしまったことなのだ。


「すみません、黒葛川先生。すみません。……」


「いえ。あなたのお話や気持ち、それにあなたが自作自演で作り上げたDMを思い返せば、おおよそあなたの考えていることは分かりましたよ。なぜ、あなたが瀬沼さんを脅したのか。……呪いのアパート、という話が嫌だったのですね?」


 私は愕然とした。どうしてこの黒葛川幸平という人は、私の考えていることが読めてしまうのだろう。


「これでも自分史代筆を生業としている者です」


 黒葛川幸平は、またも私の心を読んだかのように続ける。


「人間ひとりが行動したとき、極端に矛盾していることは少ない。外から見れば異常な行いでも、本人の中では必ず一貫性がある。汐見さんは、長門うさぎさんの名誉を奪いたい、長門さんを悪党だと世間に訴えたい。その一心で行動してこられた。ならば、呪いなんて話になっては困るわけです」


 そう、そうなのだ。

 第二の事件が起きたあと、ネットでは『清瀬荘』が呪いのアパートだという話になった。同じアパートで二人も殺されてしまえば、そういう噂が立つのも当然だけれど、それでは私は困るのだ。


 長門うさぎは、呪いの果てに亡くなったのじゃない。哀れな犠牲者であってはならない。長門うさぎは腐敗した人格のために過ちを犯し殺害された、自業自得の女でなければならない。だから私は事件関係者であり、犯人が有紗先輩を脅したことを利用して、第二の脅迫状を『サイバード』に郵送したのだ。



『ノロイデハナイ タタリデモナイ スベテナガトウサギノセイ スベテハナガトウサギノオニノヨウナココロガウミダシタコト』……



 私がこう書いたのは、このように有紗先輩を脅すことで新たな騒ぎとなることを期待していたからだ。そして、事件の中心は呪いでも『清瀬荘』でもなく、あくまでも長門うさぎだと世間に認識してほしいと思ったからだ。


 でも、でも、有紗先輩、ごめんなさい。すみません。

 私は、長門うさぎへの怒りのあまりに、なんということを……。


「瀬沼さんには事件のこと、あなたのこと、すべてお話ししました。……汐見さん」


「はい……」


「瀬沼さんは、あなたのことを許すと言っています。自分も地元の福岡では周囲となじめず、だから逃げるように上京してきた。あなたの気持ちも少しは分かる、だから許す、と」


 私は顔を上げた。

 許してくれるのか。有紗先輩は。


 そして、気持ちは分かる、と言ってくれた。その言葉は、たまらなく私の心にしみた。分かる、と言ってほしかった。誰かに、君の気持ちは分かると言ってもらいたかったのだ。自分が弱いことも、愚かなことも、間違っていることも百も承知だ。それでも恨みを抱き、行動せずにはいられなかった。それを、それを有紗先輩は、分かる、許す、と。……


「怒っているのはネットカフェの店長のほうですね。従業員が従業員を脅すというのは許せない、これからもう一緒に働くことはできない、と」


「仕方がありません。いえ、当然のことだと思います……」


「汐見さん」


 黒葛川幸平は、この上なく、優しげな声で、


「あなたのことは、警察も厳重注意で済ませるつもりです。瀬沼さんがあなたを許した以上、罪はもう存在しない。仮にあなたを逮捕しても、恐らく不起訴で終わるでしょう。もう、これ以上はありません。あとは僕とあなたの間の話です」


「黒葛川先生との……」


「ええ、そうです。どうでしょう、事件は、そして長門うさぎさんの人生はこのような結末を迎えましたが、長門さんの自分史は、まだ世に出すおつもりでしょうか」


 私はなんとも答えられなかった。長門うさぎへの憎しみと怒りは、まだ心の奥底でくすぶっているのだ。私は過ちを犯した。けれどもそれだって、元はと言えばあの女が私の人生を愚弄し、蹂躙したからなのだ。あいつさえいなければ、という思いは消えない。


 米国のどこかに、何十年も前に地下火災が起きて、その火はいまなお、土中で燃え続けていると聞く。その炎と同様、私の心の中の怒りは、延々と燃え続けるのだろう。憎むべき相手がこの世を去ったいまとなっても。


 けれど、それでも。それでも、私は……。

 震える指でカップを持ち、カフェラテに口をつける。


 やがて私は、熱い息を吐き出した。

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