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第二十二話 そして、もうひとつの真実

「あの女と初めて出会ったのは、小学校の入学式です。最初はそれなりに仲が良かったんです。私が学校を病欠したときも、お見舞いの手紙をくれたりしましたし、昼休みに遊んだこともあります。けれども、そのころから私のことを馬鹿にしてくることはありました。ボール遊びで鈍臭いとか、いつも絵を描いてるけれどすごくヘタだとか、それくらいのことでしたが。しかし三年生、四年生と上がっていくにつれて、それは笑えるレベルではなくなっていきました。無視をしたり陰口を叩いたり、貸した本を返してくれなかったり、ランドセルの背中部分に画鋲をセロハンテープで貼り付けていたり。彼女はどんどん、私を、いじめるようになっていったんです」


 当時、クラスで流行していたパステルカラーのペンケースを私が新しく買ったことが、長門うさぎの逆鱗に触れた。うさぎはペンケースを取り上げて、ニヤニヤ笑いながら、気持ち悪い、似合わない、なんか変、ダサい、と私の悪口を連呼した。そのときはクラスの担任がやってきてうさぎを注意したけれど、いじめやからかいはなくならなかった。


 恐ろしいことに、五年生になっても六年生になっても、中学校に入ってもそうだった。うさぎは一貫して、私のことをいじめ続けた。クラスメイトに、私のことを仲間外れにするように命令した。私の教科書やノートを隠したこともあった。うさぎは取り巻きが多かった。級友たちは私を仲間はずれにした。だから私は図書室にこもり、本ばかり読んでいたが、そこもうさぎからするとなにかが気に入らないらしく、喋り方が変だとか、頭がおかしいとか、空気が読めないとか、すべてにおいて私の人格をいたぶってくるのだ。図書室に入ったばかりの新刊を読もうとしたらいきなり取り上げられたこともあった。おかげで私は古い作品しか読めなかった。


 あまりにいじめが酷いから、私は一度、怒鳴り返したことがある。するとうさぎと取り巻きは、私のことを『ヤバいキレキャラ』だと学年中に吹聴して回ったのだ。私はついに中学で完全に孤立した。友人はいなくなった。先に口や手を出してきたのは向こうなのに、それに怒ったらどうして私が悪役になるのか。


 たかがいじめ、たかがからかいと言わないでほしい。ひとつひとつは小さないじめでも、それが積み重なっていけば、人の心は病んでしまう。ましてそれを中学卒業まで延々とされてしまったときの私の気持ち。私はすっかり病んでしまった。人間不信になった。それにしても、私と気が合わない人間なんて人生の中で何人もいたけれど、小一から中三までネチネチと絡んできたのはうさぎくらいのものだ。


 人間が信じられなくなった私は、高校も続かなかった。途中で中退し、街をうろついた。すると中学時代の知り合いと出くわしそうになった。背筋が凍り付いた。人間が化け物のように見えた。私はもう外にも出られなくなった。親に泣きついて、前橋から北千住に引っ越した。


 それから数年、私は無為に時間を費やしていた。ときどきアルバイトや就職活動をやったりもしたが、どれも人間が信じられず、自分を出せず、また上司や先輩、同僚を尊敬したり頼ったりすることができないために失敗を繰り返した。だが二十四歳になったときようやっと、『サイバード』に務め始め、とにもかくにも仕事をある程度続けられた。


 だがそんなある日、SNSで、長門うさぎを発見してしまった。


「吐き戻しそうになりました」


 私は、黒葛川幸平の顔も見られないまま告げた。


「憎くて憎くてたまらない、あの女。長門うさぎが間違いなく、そこにいるのです。メイクはずいぶん派手になっていましたが、間違いなくあの女だと分かりました。そして長門うさぎはパパ活なんかをして、時おり炎上をしながらも、数万を数えるフォロワーがいたりして」


 なに、それ。

 と、思ったのだ。

 私はこの女のせいで人間不信を何年もこじらせ、いまでも昔を思い出しては、夜中に絶叫したくなるほど苦しいのに、この女はネットの人気者?


「あらゆる憎悪。はらわたが煮えくり返る憤怒。お分かりでしょうか、黒葛川先生。この女さえ、この世にいなければと嫌い抜いた人間が、元気いっぱいに人生を満喫している。社会から存在を肯定され、賞賛されている。この屈辱、この絶望。忘れようとしても忘れられない。……黒葛川先生、こういうとき、人はすぐに、忘れてしまえとか、そんな昔のことをいつまでとか、もうSNSなんか見るなとか、二十五歳にもなって幼稚だとか、平気でそういうことを言いますね。そういう人は弱者の気持ちなんかまるで分からない、想像力のカケラもない、糞みたいな人間なんだと私は思います。……忘れるなんて、振り切るなんて、私はそんなことできなかった。怒って、怒って、怒り抜いて、この女に復讐をしてやろうと、そのために情報を集め続けたわけです」


 長門うさぎは、自分のことをよくネットでペラペラと喋っていた。昔、カラオケボックスでバイトをしたとか、地下アイドルをやったことがあるとか、そういうことをよくSNSで発表していたし、ときには動画で喋ったりもしていた。私はSNSを開設し、長門うさぎ、つまり『ラビット』をフォローした。地元が同じ前橋だと知って、向こうもフォローしてきて、ネット上ではあるけれども本当の友達みたいにお喋りした。無論向こうは、私のことを中学の同級生、汐見秋だとは知らなかったわけだけれど。


『ラビット』とは個人的にDMを何度も交わした。私はたくみに、彼女の過去を聞き出した。図書室で延々と本ばかり読んでいた過去も無駄ではなかった。文章のコミュニケーションだけならば、自分で言うのもなんだがちょっとしたものだった。おかげで私は、中学校卒業以降の長門うさぎの人生をすっかり知ることができた。


 ネットに上がっている画像から、長門うさぎの生活圏を特定し、ついに長門うさぎをリアルで見つけ出すこともできた。まさかあの女も自分の暮らしている北千住にいるとは。嫌悪感、と同時にこれもあるいは天の配剤かと思った。


 復讐せよ、やり返せ、長門うさぎにも絶望を与えよ!


 神様がそう言っているのだと思うようになった。しかしリアルの長門うさぎを追跡し、『清瀬荘』にたどり着いたときは、こんな汚いところに住んでいるのかと嘲笑もした。ネットとリアルが、まるで違うではないか。見栄っ張りだった性格は少しも変わっていないようだ。三つ子の魂なんとやらと言うが、長門うさぎは社会に出ても見栄っ張りだった。


 しょうもない……。

 と、私は最初、長門うさぎの人生を馬鹿にした。


 バイトもろくに務まらないとか、売れないアイドルだとか、汚いアパート暮らしだなんて、まったくつまらない人生だ。ざまあみろ。私はニヤニヤ笑った。


「けれどもすぐに自己嫌悪しました。なにもかも自分に跳ね返ってきたんです。バイトが務まらないというなら、二十四歳まで引きこもり同然だった私はどうなのか。地下アイドルを笑うというけれど、そのアイドルにさえなれない、夢も持っていない私はどうなのか。古いアパートと言うけれど、家から独立はできている。いまなお実家暮らしの私とは違う。長門うさぎを笑うことなんて、私にはできなかった。それからいっそう、自分が情けなくて、また、長門うさぎが憎くて、憎くて……もう、心は真っ暗闇でした。こうなったらもう本当に、長門うさぎを殺すしかないんじゃないかとさえ思いました」


 私は、声が嗄れ始めていた。泣きじゃくりながら喋ったからだ。黒葛川幸平が、お冷やをそっとすすめてきた。私はぐいっと飲み干したけれど、苦い、なんて苦い。喉を潤すはずの甘露が、たまらなく苦い。苦み走った口中のまま、私は続けた。


「そんなときです、あの女が、死んだのは。殺されたのは……」


 思わず、拳を握りしめる。

 あの瞬間のことを考えると、いまでも涙が溢れそうになる。


 もちろん、嬉し涙だ。私が長門うさぎの結末を考えるときに流す涙など、悲しみであろうはずがない。嬉しくて嬉しくてたまらずに泣くのだ。自分の人生で初めて嬉し涙を流した理由が怨敵の殺害だなんて、あまりにも悲しいのだけれど、現実がそうなのだから仕方が無い。


「たまらなく嬉しかった。誰がやったか知らないが、よくぞ長門を殺してくれたと思いました。拍手喝采です。けれども、また別の感情も湧き出してきました。長門殺しの事件が奇妙なミステリーに溢れていることを知ると、なんとしてもその事件の真相を知りたくなったのです。それは真実を解き明かしたいという思いではなく、あの女が、大嫌いな長門うさぎが、どのように苦しんでこの世を去ったのか知りたいという思いからでした。なんとか事件のことを知りたい、長門がどのように絶望したか知りたいと思い、私は事件をひそかに調べようと思いました。……ここで長門にいじめられたと言えば、私が犯人だと思われるから、長門うさぎの親友だと名乗って……」


 私の長演説を、黒葛川幸平は肯定するでもなく否定するでもなく、ただじっと無言で聞いてくれている。

 彼の雌雄眼が、なぜだか、とても温かく感じた。


「……。それと、もう一つ。もう一つ、感情が溢れてきました。そう、それは、あの女がいかに酷い女だったか、惨殺という末路にふさわしい人間だったかを、世の中の人間に徹頭徹尾知らしめてやらないと気が済まない。そう思ったのです。だから黒葛川先生、あなたのことを知ったとき、私は小躍りしたくなるような嬉しさを覚えました。なんて適任な人材だろう。あなたに事件のことを解明してもらい、それと同時に長門うさぎのおぞましさ、性悪さ、極悪ぶりを、長門うさぎの自分史としてこの世に書き残してほしい、そう思ったのです」


「それであなたは、ここでも、長門うさぎの親友として、私に長門さんの自分史の執筆を依頼したわけですね」


「そうです。かつていじめられていた人間が、復讐のために記録を残してほしいなどと言えば、断られるかもしれない。なによりも、私怨として世に出したくはなかった。あくまでも、公平な目線で長門うさぎの人格と所業を断罪した文章であってほしかったからです」


 卒業アルバムはともかく、子供のころ、まだいちおう仲良しだったころのうさぎに送られた手紙も、あれはダンボールの奥にくしゃくしゃになって入っていたものだ。今回、偶然見つけたものだったのだ。誰があんな女からの手紙、好んで保管しておくものか。……


「最初から、妙だとは思っていました」


 黒葛川幸平は深刻な顔をして、


「長門うさぎさんと親友のはずのあなたが、『清瀬荘』にある長門さんの部屋には一度も来たことがない。隣人の大熊勇さんに大家の清瀬さん、さらに『ファリーナ』の店主たる坂本氏や、多田羅翔真、鯉沼隼人、皇海香ら、長門さんの友人たちともまるで面識がなく、存在もお互いに知らない。親友というわりには、一緒に撮影した写真もなく、見られるのは昔の卒業アルバムと小学生時代の手紙のみ。だから、ふと思ったのです。あなたは確かに長門さんの同級生ではあるが、友達ではないのかもしれない、と」


「すみません。……そういうことです」


「そして、あの情報提供をしてくれたアカウントたち。あれもあなたの自作自演ですね?」


「……そうです」


 私はすべてを打ち明けた。

 黒葛川幸平は怒るでもなく、ただ一つ、うなずいて、


「あれも不思議なアカウントたちでした。調べてみると、どのSNSもあなたと会っているときは少しも動かない。DMを送ってくる時刻も、汐見さんが明らかに時間的に余裕のあるタイミングのときばかり。別人のアカウントのわりには、文章のクセもどこか似ている上、全員が都合良く長門さんの悪評ばかり送ってくる。そして、すべてのアカウントが消えていくのはあまりにも不自然でした」


「過去は本物です。私が調べた、あるいは『ラビット』に教えて貰った長門うさぎの過去です。……私はSNSのアカウントを買収し、そのアカウントから、私自身のアカウントに長門の悪評DMを送り、それを黒葛川先生にお見せしたのです」


「SNSを買収ですか。おおよそ、そうじゃないかとは思っていましたが」


「休眠状態のようなアカウントを無作為に選出し、一万円あげるからアカウントを譲ってくださいといえば、すぐに複数のアカウントが手に入りました。……古くから存在するアカウントを使えば、自作自演もばれにくいと思って」


「確かに、何年も前からあるアカウントからDMを送れば、自演は疑いにくい。……アカウントをあんなにたくさん使わず、しかも利用後に消さなければ、僕でも分からなかったと思います。あれは汐見さんのミスでしたね」


「ミスというなら、……子供のときに、長門うさぎにいじめられたこと、いや、むしろ、出会ってしまったことが最大のミスです」


 窓の外は、もうすっかり暗くなっていた。

 はるか遠くにうっすらと見えている、駅前の煌びやかな光が目に沁みて、たまらなかった。

 黒葛川幸平は、低い、うなるような声で、


「それで、ですか。新居浜早苗のアカウントが、奇妙なDMを送ってきたのは。あそこだけ、どうして打ち間違いのDMになっているんだろうと思っていましたが、分かった気がします。あれは……」


「そうです。嘘でも、なりすましでも、友達だと書くことに抵抗があったんです。いまの私は新居浜早苗だ、と思いながら書いていたのに、指がうまく動きませんでした。書き直すのさえ億劫で。精一杯、親友のふりをしていたのに限界が来ていたわけです。誰が、誰があんなやつを友達だなんて言葉にできるものですか。私は、私は……」


 古い喫茶店の中とはいえ、空調は効いている。

 明かりも灯っている。それなのに、夜の世界で泣いているようだった。


「憎かったんです。あの女が、長門うさぎが、ただただ憎い。あの女の名誉を奪うことができたら、私は、私は。……せめて一矢報いたかった。間違っていてもいいから、憎くて憎くてたまらないあの人間に、傷をつけてやりたかった。あの女に、あいつに……」


 嘔吐しそうなほどの、胸糞の悪さを覚えながら私は、ただただうつむいて、


「もう、いいですか。……もう、いいでしょう……?」


 最後の言葉を絞り出した。

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