黒葛川幸平が人懐っこいのはいつものことだが、今日は特にウキウキしているように見えた。よほどいいことでもあったのだろうか。それから喫茶店の中に入ると、サンドイッチを頼みコーヒーゼリーを頼み、あれが美味いんですとかどうとか言いながら、あれこれぱくついていた。私は黙ってカフェオレを飲みながら、黒葛川幸平の顔を見つめていたが、彼はやがて、声の調子を落として、
「どうも、チェーンソーらしいですよ」
「……はい?」
「長門さんの遺体を切断し、破壊した道具です。凶器といってもいい。最初に長門さんを殺した凶器は包丁かなにかだったかもしれませんが、その後、あれほどまでにズタズタにしたのは、チェーンソーのような道具だったようです。切断面などから、警察が検証してくれました」
猟奇的な話を、こともなげに話してくる黒葛川幸平。よくそんなことを、食事のついでに喋れるものだと、呆れるやら感心するやら。しかし黒葛川幸平の話は、私にとってそれほど驚きではなかった。
「まあ、そういう武器を使うでしょうね。バラバラ、というか、グチャグチャの遺体でしたし」
むしろチェーンソー等でなかったら、どうやって人間をああいう風にできるのか、と言いたくなる。
「しかし汐見さん。人間を切断するならノコギリなどでもいいわけです。あるいはもっと単純に出刃包丁やナタでもできる。それがどうして電気工具を使ったのか。それが個人的には気になりましてね」
「分かりませんよ、私は犯人じゃないんですから」
「もちろん、もちろんそうですとも。汐見さんはどんなときでもアリバイがありますし、僕の協力者ですからね。いや、いつもSNSの情報を細かく教えていただいて、感謝しています。ははっ」
どうも小馬鹿にされている気がする。こういうとき、なんですかその態度は、と言い出せる自分でありたかった。残念ながら私は、内心の憤慨を顔に出せるような強い人間ではなかったのだ。このときも私は「どうも」と、小さくうなずくのが精一杯だったのだ。
「警察では目下、チェーンソーの販売店をあたっています。包丁などと違って、そうポンポンと売れるものではありませんからね。近隣のホームセンターなどを巡って、犯人が購入した形跡や履歴がないか、調べているそうです。もっともそれも、遠方のホームセンターで買われていたら厄介ですが」
「人に頼んで購入されていたら、もっと厄介ですよ。田舎の親戚なり知人なりにチェーンソーを買ってもらっていたら、店員さんも防犯カメラも犯人を目撃していないことになりますし」
「ほう。ほう、ほう、ほう。それは慧眼。ごもっともです。そうか、人づてに買ったのかもしれませんね。その視点はなかった。いや、参考にさせてもらいます。お見事です、汐見さん。僕はたったいま、とても感服いたしました。そうかあ、なるほど」
黒葛川幸平は心底、私を見直したみたいな眼差しをしていたが、これさえも本気なのかどうかよく分からない。分からないのに、褒められてしまったものだから、私は嬉しくなってしまった。人に肯定されたことのない人間は本当にチョロい。我ながらそう思う。――ああ、なるほど、有紗先輩に褒められたときの黒葛川幸平も、こんな気持ちだったのだろうな。
「ところで汐見さん、情報提供をしてきたSNSの話をしたいのですが」
「ああ、はい、どうぞ」
「『ひよこ』さんと『PS19XX』さん。両方のアカウントを見てみましたが、お二方とも、つぶやきのペースは一ヶ月に一回くらい、いわゆるヘビーユーザーではないようですね。それが今回の事件についてはずいぶん詳細なDMを送ってくる。ちょっとこちら、不思議と思いませんか?」
「でもそれは、事件のことを知ったから送ってきたのでは? そしてうさぎのことが大嫌いだったから、興奮して長文DMを送ってきた。それだけのことでは?」
「まあ、そう考えるのが妥当ではありますね。しかし……。ああ、いえ、ところで汐見さん、これまでに情報を教えてくれたアカウントは、どういう方々だったのでしょうか。情報を送ってきたらすぐにアカウントが消えていますが」
「私もどういう人たちか、よく知りません。今回の事件が起きて初めてDMを送ってきた人たちですから。どうしてみんなが消えてしまうのか。その理由も分かりません。まさか犯人に消されているとも思えませんし」
「ええ、普通の人ならばともかく、SNSのアカウントですからね。犯人が殺せるはずもありませんし、消せるはずもありません。まさかスーパーハッカーがアカウントを消しているはずもありませんからね」
「あはは。ああいうのはドラマとか映画だけの世界でしょう。ハッカーなんていませんよね」
「いたとしても、消すのであればまず情報提供を呼びかけているあなたのアカウントですからね」
「…………」
私は思わず沈黙した。
「そうでしょう、他のひとが消えて、汐見さんの『あき』だけが無事なんてことはありえない。理屈に合いません」
「それはそうですが、じ、じゃあどうして、他のアカウントは消えて、私だけ、残ったのか……。どうなんでしょう、黒葛川先生」
「分かりませんよ、僕は消した人じゃないんですから。ははっ」
笑くぼを浮かべる、黒葛川幸平。
どうしてそう屈託なく笑うことができるのだろうか。いま目の前に起きている事態は、笑えるような事態ではないはずなのに。それだけ修羅場を潜ってきたのかもしれないが、それにしても。
そのとき店内の柱時計が音を鳴らし始めた。十七時になったのだ。
「すみません、もうすぐアルバイトがあるので」
私はそう言った。鳴り物入りの柱時計というやつは、こういうときに話を区切ることができるから便利なのだなといま気が付いた。
「ああ、もうそんな時間ですか。良い時間を過ごすことができました。バイトはネットカフェですよね。この近くにあるんですか?」
「北千住と南千住の中間です。有紗先輩と同じ職場なんですけれど、言っていませんでしたか?」
「ああ、同じバイト先なのは知っていましたが、南千住に行く途中だったんですか、それは知りませんでした。送っていきましょうか」
私は少し迷ったが、殺人犯が街をうろついている恐怖を、心の中から消し去ることができず、
「じゃあ、お願いします」
と、言った。黒葛川幸平が妙な人だとしても、殺人犯ではないし、いざとなったら守ってくれるような気がしたのだ。奇妙なことだが、私はこの自分史代筆家を、奇人変人、不思議な人だとは思っているが、正義の人だという印象だけは消えずに持ち続けているのである。
やがて私と黒葛川幸平は、ネットカフェ『サイバード』が入っているテナントビルの前に到着したが、そのときタクシーが私の前に停まった。ドアが開くと、中から登場してきたのはなんと有紗先輩だった。ずいぶん久しぶりな気がするが、考えてみれば五日ぶりだった。第二の事件以降、バイトを休んでいたのだから無理もない。
「有紗先輩」
「秋。あれっ、黒葛川さんも。一緒だったんだ?」
「はい、ちょっと話があって、北千住の喫茶店で。ははっ、すみません、二人だけで美味しいものを食べちゃいましたよ」
「そうなんですか、うわあ、いいなあ。今度はわたしも連れていってくださいよ。……無事に事件が解決したら」
「ええ、もちろんですよ。それじゃ僕はこれで。二人ともアルバイト、頑張ってください」
「はい、どうも。お疲れ様でした」
「黒葛川さん、それじゃまた」
私と有紗先輩は二人で、去っていく黒葛川幸平の背中に向けて小さく手を振ったが、やがてネットカフェに向かって移動を始めた。
「もう大丈夫なんですか、有紗先輩」
「ごめん、面倒をかけて。まだ大丈夫でもないけれど、いつまでもバイトを休んでいられないから。一人暮らしで生活もかかっているし」
西村克広と同じようなことを言うな、と私は思った。あの人も生活がかかっているからずっと仕事をしている。そう言えば私もそうだ。実家暮らしとはいえ、二十五歳にもなっていっさい働かないわけにはいかない。みんな事情は同じか。人が死のうが、脅されようが、生きるためには労働をしなければならない。ああ、世知辛い。
『サイバード』に入ると、店長が心配した様子で有紗先輩を気遣った。有紗先輩は白い歯を見せながら、もう大丈夫ですと、先ほどまでとは違う顔を見せながら、女子更衣室に入っていく。ああいうところが、私には決して真似できない。やっぱり強い人だなと思う。
でも、第二の事件で有紗先輩を脅したあの言葉。
『オマエハモウナニモスルナ ツギハオマエガコウナル』
あれはいったい、なんだったのか。
なにもするな、と言うけれど、有紗先輩がいったいなにをしたのだろう。有紗先輩は事件から一番遠い人だったはずだ。犯人はいったいなにを思って、あんな言葉を書き残したのか。
そもそもあんな脅しをすれば、有紗先輩は警戒してしまう。実際にここ数日、有紗先輩はショックを受けて自宅に籠もりきりで、バイト先にさえ出てこなかった。有紗先輩が邪魔なら、脅しもせずに殺してしまったほうが早いのに。うさぎや大熊勇を殺したように。
やがて私たちは制服に着替え、レジの前にやってきた。午後五時五十分。バイト開始時刻より十分早い。この着替え時間も本来ならば時給換算してほしいのだが、それを店長に訴えると「いやあ、勘弁してよ」なんてごまかされてしまう。そこで引き下がってしまう私も私なのだけれど。
そのごまかし店長、私たち二人がやってきたことで退店の準備を始めたが、そのときだった。
「ああ、そうそう。今日の朝、瀬沼さん宛てに郵便が届いていたよ」
「わたしに? 住所もここですか?」
「うん、不思議だよね。こんなことまずないのに」
実際、不思議なのだ。私と有紗先輩がこの店でバイトをしていることなんて、家族以外ではろくに知らないと思うのだけれど。興味もないだろう。黒葛川幸平でさえ、店の住所を知らなかったではないか。
店長が「はい、これ」と言って、茶封筒を差し出してきた。なるほど確かにこの店の住所宛て、あて名も瀬沼有紗となっている。消印は二日前で、この街となっている。
有紗先輩は一瞬、険しい顔を見せてから、封筒をハサミで切って開封し、中身を取り出すと、
「きゃあぁ!!」
「先輩。有紗先輩、どうされたんですか!」
短くも甲高い悲鳴をあげる、有紗先輩。
私の全身に恐怖が走った。店長も、額に汗をにじませる。分かっていた。分かっていたことだ。ここで送られてきた封筒の中身が、ただの郵便であるはずがない。間違いなく、有紗先輩の度肝を抜くものが中身なのだ。分かっていたはずだ。分かっていた――
『ノロイデハナイ タタリデモナイ スベテナガトウサギノセイ スベテハナガトウサギノオニノヨウナココロガウミダシタコト コロス コロス スベテコロス コロサレル ワタシハズットミテイル ズットズットミテイルゾ』
「あ、ああ……」
『オマエハモウナニモスルナ』
あのときと同じ文言が繰り返されている。
A4サイズの普通紙に、赤字で印刷されたもの。
マジックではなく印刷だった。しかし、その文面は有紗先輩の心を恐怖させるのに充分だったようで、
「ど、どうして、なんでわたしなんよ。なんでこの店に送られてくるの。犯人が、犯人が、なんで『サイバード』の住所を――もう、嫌ぁあぁぁ!!」
私は押し黙り、店長はオロオロとするばかり。地べたにこぼれ落ちた手紙、その横に尻餅をついた有紗先輩。
事件はいっそう混沌としてきた。ここに来て、謎がまた増えたのだ。有紗先輩がこのネットカフェに勤めているなんて、知っている人は決して多くはないのに。
そもそも先輩自身が言うように、どうして有紗先輩のことを犯人はつけ狙っているのか。なにも分からない、なにも分からない! 私はただ、このことを黒葛川幸平に相談しようと思う。黒葛川幸平と警察がどこまでできるかは分からないが、とにかく話そうと思う。それにしてもなんて摩訶不思議な事件の連続。犯人が悪い。もちろん悪い。もちろん怖い。けれども一番は、長門うさぎ、そう、あの私の親友にして同級生だった彼女だ。あの人もきっと悪かったのだ。なにかとんでもないトラブルを巻き起こして、犯人の恨みを買い、このような事態と成り果てたに違いないのだ。
長門うさぎ!
いまからでもいい、生き返ってきて。
そして犯人を私たちに教えてくれると同時に、すべての関係者に謝罪して!
迷惑をおかけしました、すべて自分のせいです、自分の生き様のせいでこんなことになりました、と。
私は本気でそう思っていた。そうなってしまうほどのインパクトが、この連続事件にはある。
うさぎ、長門うさぎ。
この街が、大熊勇が、清瀬さんが、有紗先輩が、こんなことになったのは、きっと、すべて、あんたのせいなんだ。
生き返ってきて、私に謝れ!!