「清瀬さんは、なにをしているかな。……」
「え?」
ぽつりとつぶやいた、何気ない感じの黒葛川幸平の一言に、私は心を奪われた。
「清瀬さんはどうしているんでしょうね。こんな風に自分の家が、自分のアパートが、呪われているなんてネットで言われて。可哀想です。あのひとも一種の被害者なのに」
「そう言われたら、そうです。私、清瀬さんのことはすっかり忘れていました」
「なにか持っていきましょうか」
黒葛川幸平はメニューを開いて、ケーキの写真が印刷されてあるページを私に見せた。ページの隅に、テイクアウトやっています、と書かれてある。美味しそうなニューヨークチーズケーキだった。
異論はなかった。黒葛川幸平は坂本氏を呼ぶと、ケーキをホールサイズで注文した。
「できますか?」
「ええ、大丈夫ですよ」
「こちら、テイクアウトもやっているんですね」
「コロナ禍のときに始めたんですよ。いまではこれも稼ぎ頭です、はっはっ……。少々、お待ちください」
坂本氏の笑顔のおかげで、アルコールやメインディッシュを頼まなかった罪悪感が少し消えた。作り置きをしていたのか、箱に入れられたニューヨークチーズケーキはすぐに出てきた。黒葛川幸平は「お会計を」と言って席を立つ。私もそれに倣った。坂本氏が、やはりみずから会計をする。黒葛川幸平は、笑顔で言った。
「どうですか、あの多田羅翔真さんたちは。近ごろ、まだ来店しますか」
「いいえ、近ごろはお見えになりません。噂ですが、二度目の事件があったために、さすがに怖くなったようで」
「そうですか。まあ、無理もないですね。……ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした」
私と黒葛川幸平は、外に出た。
雑居ビルの廊下は、妙に冷え冷えとしていた。黒葛川幸平が黒いコートを羽織る。そこへ、見覚えのある男性が登場した。
「やあ、西村さん」
黒葛川幸平が、穏やかに声をかける。掃除の仕事をしている、西村克広である。西村克広は、ちょっと驚いたように顔を上げると「ああ、どうも」と生返事を返してくる。
「これからお仕事ですか」
「はい、そうです。……」
「すみません、せっかくだから少しだけ。長門さんや大熊さんの殺人事件について、なにか新しい情報をお持ちではありませんか。噂程度でもいいので」
出会いは偶然だったが、その偶然からでさえ、わずかなりとも情報を得ようとする黒葛川幸平の貪欲な姿勢が見て取れた。
だが西村克広はかぶりを振って、
「なにも、なにもありません。もういいですか。うっかり妙なことを喋って、犯人に狙われたら私も怖いんで……」
それからチラリ、チラリと私たちのほうを眺めた。舐めるような視線だった。
「わ、分かります。私の先輩も怖すぎて、引きこもりになってしまいました」
なにか話さないと無視をしているみたいでまずいかなと思い、私も口を開いた。私なりに必死だった。
しかし西村克広は、にこりともせずに、ふんと鼻を鳴らして、
「いいですね、引きこもりになれて。私だってそうしたいけれど、怖いけれど、働かないと食っていけないので今日も掃除です。もうすぐクリスマスだというのにね」
「ああ、そうなんですか……」
「男なので、パパ活もできませんからね。それじゃ、私はこれで」
西村克広は、もうすべては済んだとばかりに掃除用具を手にしてから、廊下の奥へと消えていった。
「感じ悪いですね」
私ははっきりと言った。
軽く自己嫌悪に陥った。ああいう無愛想すぎるひとは苦手だが、たぶん自分も、外から見たらああいう風に見えているんだろうなと思ったからだ。
「いろんな人がいますからね。しかし、どれほど怖くても辛くても、働かないと食っていけないというのは事実ですから。……きっと、あの人にはあの人なりの世界が見えているんです」
「哲学みたいなことを言いますね」
「自分史を何度も手がければ、こうもなります。皮肉屋みたいで良くないとは思っているんですが」
やがて雑居ビルの外に出ると、雪がちらついていた。
夜の初雪だ。クリスマスムードの街がいっそう華やかに見えた。
しかし自分には、この街の喧騒は関係ない話だな、と思った。恋人もいなければ定職さえない、しがない人生を送っている私。クリスマスがなんだ、雪が降ったからどうした、というやさぐれた気持ちのほうが先に立つ。先ほどの、西村克広の気持ちが少し理解できた。まだ二十五歳だけれど、もう二十五歳なのだ。同世代の人たちはみんな、仕事で輝いたり、恋愛を楽しんだり、結婚をして子育てまでしている人間もいるだろうに、私は。
それもこれも、すべて……。
「ああ、タクシー代は僕が支払いますので」
突如、黒葛川幸平から何気ない話題を提供された。私は我に返り、ありがとうございます、とだけ言った。
それだけしか言えなかった。
タクシーを使って目的の『清瀬荘』にたどり着いたのは、それから十五分後のことだった。
アパートの門前では若い男が三人、群れをなしていた。彼らは『清瀬荘』とスマホの画面を見比べながらニヤニヤと、意地の悪そうな笑みを浮かべている。恐らく殺人現場を見に来た野次馬だろう。私はこういう、底意地の悪い笑みを浮かべる類の人間が大嫌いだ。八つ裂きにしたくなる。学生時代、私を見下しながらニヤニヤと笑ってきた、あの連中のことを思い出すのだ。直感的に分かってしまうのだ。この笑い方はひとを小馬鹿にした笑い方だと。
黒葛川幸平は、ひとつ大きく咳払いをしてから、『清瀬荘』へ入っていった。私もそれに続く。野次馬の男たちは、お互いのことをチラチラと見つめ合いながら、小走りに去っていった。気弱な連中だ。
『清瀬荘』の二階、大熊勇が殺されていた部屋に明かりが灯っていた。黒葛川幸平と私は階段を上り、二階へ向かう。大熊勇の部屋を覗き込むと、清瀬さんが室内をせっせと掃除していた。
「清瀬さん、どうも。黒葛川幸平です」
「お。……おお、作家先生かい」
清瀬さんが振り向いた。
「うっ――」
私は息を呑んだ。黒葛川幸平でさえも一瞬、目を見開いた。
清瀬さんが着ていたのは、紺色のハイネックだったが、その胸元に黒いものが大きく広がっていたからだ。それがまるで血のシミみたいに見えて、ぎょっとしてしまったのだ。まさか清瀬さんも襲撃を受けて、と思ってしまったが、
「ああ、これ」
清瀬さんは私たちの反応を見て、すぐに悟ったらしい。自分のハイネックに広がっているシミを指先でつまんで、
「さっき、部屋の掃除をしていたら、汚しちまってね。水でちょっとだけ洗おうとしたら、思いのほか水がたっぷりついて、こんな風になっちまったよ。そんなに驚かないでおくれ、あたしはピンピンしてるから」
「なあんだ、そういうことでしたか」
黒葛川幸平が、ホッとしたように笑くぼを見せた。
「いやいや、良かった。本当に良かったです、何事もなくて」
「それでどうしたね、こんな時分に」
「ええ、まったく、こんな時間にお邪魔して申し訳ありません。差し入れにケーキを持ってきたんですが、ひとついかがかなと思って」
「あら、どうも。そりゃありがたい。そうですか。……それじゃ、ありがたくいただきましょうかね」
清瀬さんは意外そうな表情を見せ、それから、一瞬、断ろうかどうか悩んだような顔をしてから、最終的にはオーケーしてくれた。黒葛川幸平と私と清瀬さんは三人で一階に下りて、清瀬さんの部屋でニューヨークチーズケーキを楽しむことにしたのだ。
『清瀬荘』の廊下の明かりは、蛍光灯も少なく、とても薄暗い。
「この廊下は、いつもこんな感じなのですか」
黒葛川幸平が尋ねると、清瀬さんは「ああ」とうめくような声をあげて、
「このアパート自体が物陰にありますからね、夜はこうですよ、いつも。それがなにか」
「ああ、いえ、なんでも」
黒葛川幸平は話を打ち切った。
「ところで、作家先生。ケーキを持ってこられたのに悪いけれど、うちには日本茶しかないんですよ。お茶でいいかね?」
「ああ、いえ、勝手で悪いんですが、じつはホットコーヒーもここにありまして。どうですか。僕が淹れたものですが、味は保証しますよ」
そう言って黒葛川幸平は、なんと着ていたコートの中から大きめのマグボトルを一本、取り出した。
「ありゃりゃ。えらく準備のいいことで」
「黒葛川先生は、いつもコーヒーを持ち歩いているんですか?」
さすがに私も唖然として、マグボトルを机の上に載せる黒葛川幸平を見つめたが、彼はニヤニヤ笑って、
「いえいえ、まさか。今日は特に外が寒いから、こうしてホットコーヒーを持ち歩いていただけですよ」
「アイスコーヒーのほうが、頭が回ると仰っていたような」
「それは室内ならですよ。冬の外では断然ホットです」
けれども以前、外でも冷たい缶コーヒーを飲んでいましたよね?
そう思ったが、口には出さなかった。
「清瀬さん、すみませんがカップだけお借りできますか」
「ああ、そりゃもう、そりゃもう」
そして私たちは清瀬さんの部屋に入った。
清瀬さんは、すぐに戸棚からコーヒーカップを人数分、持ってきてくれた。
カップにコーヒーが注がれ、良い香りがあたりに広がる。
「それじゃ、いただきます」
私たちは揃って、ニューヨークチーズケーキとホットコーヒーを口にした。美味しい。酸味のあるブラックコーヒーとケーキの甘みが絶品だ。実によく合う。
「ああ、美味しい。近ごろはこんなに美味しいチーズケーキがあるんじゃね。生き返る心地だよ。本当に近ごろは参ったよ」
「アパートに入ってくるときも、変な人たちがいましたが」
と、私は気持ち低めの声で言った。
「ああいうの、多いんですか?」
「ああ、野次馬。事件直後が一番多かったけれど、近ごろは少し減ってきたよ。それでも日に何度かはね。野次馬なのか、ただの通行人なのか分からないんだけれど」
大丈夫です、いまにあんなのはいなくなりますよ。
と言いたかったが、言えないのが辛かった。二度も殺人現場となったアパート。ネタとしてはあまりにも恐ろしく、それでいて人々の興味を惹きすぎる。恐らく『清瀬荘』がこの世から消滅するその日まで野次馬はやってくるだろう。月に一度とか半年に一度とか、登場頻度は下がっていくだろうけど。
「辛いのは、呪いのアパートって言われていることだね。噂されているんだろう? このアパートに住む者はみんな死ぬって。怪談そのものだね」
「ああ、いえ……」
「いやいや、分かっているよ。そう気遣わんでもええよ。仕方ないことじゃ。あたしだって、もしどこかのアパートで二度も殺人事件が起きたら、呪われているって噂するかもしれん。でも自分事となるとやっぱり辛いね。旦那が遺してくれたアパートじゃもん。呪われているなんて、ねえ」
清瀬さんは、深々とため息をついて、
「どうしてこんな事件が起きたんじゃろうね。なんでふたりも殺されたんじゃろうね。犯人を早く捕まえてほしいよ。本当に……」
清瀬さんの悲しそうな瞳が印象に残った。
そうだ、犯人が何様であれ、清瀬さんを傷つける道理はないはずだ。私は心の中で憤慨した。
「捕まえてみせますよ」
黒葛川幸平が、下を見つめながら言った。
「このままでは誰もが不幸になったままです。長門さん殺しの犯人、大熊さん殺しの犯人。事件すべての真相。必ずこの僕が解き明かしてみせます。だからもう少しだけご辛抱ください。必ず清瀬さんの心の平穏を、取り戻してみせますからね」
そう言ってから、黙ってコーヒーを飲む黒葛川幸平の姿は、いつにも増して頼りがいがあった。清瀬さんは、うつむいたまま「ありがとう」と言った。カップの中の揺れている黒の水面を見つめながら、黒葛川幸平は、恐らく最初から清瀬さんと、温かいコーヒーを飲みながらこの励ましをするつもりだったのだろうと、私はようやく気が付いた。
『清瀬荘』を一歩出ると、雪交じりの風が横薙ぎに吹き付けてきた。外は暗く、小さな街灯がチカチカと光っているほかにはなにも見えない。
と思っていたら、また男がひとり、アパートの前でスマホと『清瀬荘』を見比べていた。闇一色の世界で、スマホの光がうっすらと輝いているのが不気味だった。男たちは、私たちに気が付くと、そそくさと走り去っていき路地裏に消えた。また野次馬か。私はその男をゆっくりと追いかけて、路地裏を覗き込むと、妙にまぶしかった。駅前の光がこのあたりにまで届いていたのだ。大した距離でもないのに、どうしてこうも光の量が違うのかと、なにか気が滅入った。
「汐見さん。……」
ふと、暖かくなった。
振り返ると、黒葛川幸平が傘を私の上に出してくれていた。折りたたみ傘を持っていたらしい。
「行きましょう。風邪を引きます」
「はい。……」
私と黒葛川幸平は、雪が降りしきる中、駅に向かってゆっくりと歩みを進めた。
その日の夜、黒葛川幸平からDMが来た。
【新居浜早苗のアカウント、消えていますね】
言われて確かめると、私に長門うさぎのDMを送ってきたアカウント『新居浜早苗』は確かに消えていた。私は無言のまま、スマホの液晶をじっと眺めていた。