「作家先生。もうそろそろ、停めても……」
「ああ、そうですね。これはすみません、もう大丈夫です」
黒葛川幸平はエアコンを停めると、リモコンを元あった場所に戻し、
「綺麗な布団、使われたレンジ、冷房のままのエアコン、冷蔵庫と冷凍庫の遺体、それと――そう、この部屋には、掃除された痕跡があると報道されていましたが。鬼塚刑事?」
「ええ、そうです。この部屋は掃除されたあとのようで、部屋の中に在宅指紋――住居内に付着している指紋のことですが、その指紋がほとんど見つからず、あそこに下がっている掛け時計にだけ長門うさぎの指紋が付着していたのです。古い指紋でしたから、恐らくこの部屋に引っ越してきたとき、時計を掛けたときに付いた指紋と思われますが」
部屋の端に掛けられている時計は、百円ショップで売られているような、どこにでもありそうな時計だった。黒葛川幸平は、その掛け時計をじっと見上げて、
「ここだけは指紋が残っていた。つまり、掃除し忘れていた」
黒葛川幸平は、雌雄眼を忙しく動かしてから、
「鬼塚刑事。長門さんの歯はどこにありますか?」
「えっ。歯、ですか?」
「そうです。グチャグチャにされたといっても、歯はそう簡単に砕けないでしょう。砕いたとしてもカケラがあったはずです。それはどこにあるんですか?」
ずいぶんグロデスクなことを、平気な顔で尋ねる黒葛川幸平。
有紗先輩が顔をそむけた。私も少し、気分が悪くなってくる。
「それが、歯は見つかっていないのですよ」
「……ほう!?」
「歯だけではない、眼球や、髪の毛の大半、さらに顔の骨の大部分――例えば下顎骨も見つかっておりません。つまりその、顔だけが見つかっていない状態で」
「つまり、顔がない遺体、というわけですか!」
黒葛川幸平は、激しく興奮した声を出すと、再び部屋中を見回した。
誰もが押し黙っていた。私も沈黙を続けた。迂闊に口も利けない。事件の異様さに、汚物がこみ上がってくるような気分の悪さを感じていたのだ。最初から不気味な事件だったことは分かっていたが、ここにきてうさぎ殺人事件は新たな凄みを帯びて、私たちの前に立ち塞がってきたのだ。
黒葛川幸平は、じっと室内を見回していたが、やがて浴室に向かった。
浴室は、青いタイル張りの室内に、正方形の白い浴槽が取りつけられている手狭なものだった。黒葛川幸平は、その浴室の中に入り、ぐるりと見回すなり、排水口に顔を近付けて、
「鬼塚刑事、この排水口は調べましたか」
「ええ、もちろん。しかし浴室にも排水口にも、遺体はありませんでした」
「遺体はいいんですが、排水口の中をもう一度よく調べておいてください。そして髪の毛があったら、それは必ず取っておいてください。一本でもいいので」
「髪の毛? それはいったい、どういう――」
「いや、僕の取り越し苦労なら構わないんです。ただ、髪の毛だけは絶対に……。必要になるかどうか分かりませんが」
「分かりました」
鬼塚刑事は頼もしく首肯した。
私には黒葛川幸平がなにを考えているのか分からなかった。顔のない遺体と、髪の毛が、もしかして関係があるのだろうか。だが黒葛川幸平は、まだ推理が固まっていないようで、それ以上はなにも語ってくれない。再び部屋の中を歩き回り、
「他に、長門うさぎの所持品は?」
「服と化粧品、アクセサリー類が少々ありましたが、どれも血液や遺体がこびりついていたので署で押収しています。服の中には財布があり、現金が二万円ほど入っていました」
「じゃあ、強盗ではないですね」
私がそう言うと、有紗先輩が重苦しい声で、
「ここまでやっておいて、ただの強盗なら逆にびっくりよ」
「財布などは、それでいいのですが。……本もノートも手帳もない、写真などもない、と。そう、例えば、汐見さん。あなたは小学校時代や中学校時代の卒業アルバムを僕に見せてくれましたが、この家にはないのですね」
その場にいた全員の視線が、私に集まった。
「そうですね、ないみたいですね。実家に、つまり絶縁している母親のところに、まだあるのかもしれません」
「ご実家。そういえば、汐見さんと長門さんの地元は、北千住ではないのですね?」
「ええ、まあ。二人とも出身は群馬の前橋です。うさぎは親と縁を切ってここに独立し、私は実家ごと北千住に引っ越したもので」
「なるほど、なるほど。あまり関係がないような気もしますが、いちおう地元のほうの人間関係も調べておきましょうか。鬼塚刑事、前橋のほうもあたってみてください」
「管轄が違いますから、捜査が少し遅れると思いますが、分かりました。汐見さん、ちなみに母校の名前は――」
尋ねられて、私は出身校の名前を出した。こんな形で、母校の名前を警察に教えることになるとは思わなかった。鬼塚刑事が手帳に忙しくメモをする。
「さて。まあ、こんなところですか」
黒葛川幸平は雌雄眼を細めると、一同を見回して、
「いや、どうも。清瀬さんも鬼塚刑事もありがとうございました。現場を見ると、やはり新たな事実が分かったり、新しい疑問が湧いたりするものですね、ははっ。最後に清瀬さん、この室内、ちょっとカメラで撮影しても?」
「そりゃ、構いませんがね。しかし作家先生、この事件は本当にどういう事件なんですかね。分かったことがあるなら、分かったところだけでも教えてくれませんかね。あたしはもう、気味が悪くてね」
それはこの場にいた全員の、共通した意見だっただろう。黒葛川幸平が、なにか気付いたことがあるのなら、是非とも教えてほしいと思うのだ。
「いや、まだ証拠のようなものがあるわけじゃないですからね。しかし、そうですね、あくまで想像でしかありませんが、それが許されるのなら――」
そのときだった。急に強い風が吹いて、アパートの窓ガラスをガタガタと揺らした。私はまたも身震いした。ただでさえ十二月の気候、しかも先ほどまで冷房を効かせた室内は寒すぎる。窓の外はもうすっかり陽が暮れて、夜の世界となっているのだから、なおさらだ。
「ああ、これは失礼、寒いですね。もうこの部屋には用はありませんし、場所を移動させましょうか。さっきの喫茶店にでもまた戻って、あったかいものでも飲みながら――」
「あたしの部屋で良かったら、あたしのところでもいいですけどね。このアパートの一階です。おばあさんの一人暮らしで、大したもてなしもできないけれど」
そう言われると断る理由もなく、私たちは『清瀬荘』の一階に向かおうと、いま来た廊下を戻っていくわけだが、うさぎの部屋から数歩行くと、黒葛川幸平がふと左を向いた。大熊勇の部屋がそこにはある。
「どうされたのです、黒葛川先生」
「エアコンの音が聞こえます。大熊さん、まだ家にいらっしゃるんでしょうか」
言われて耳を澄ますと、確かに大熊勇の部屋の中から、ガタガタと音が聞こえる。先ほどうさぎの部屋で起動させたエアコンもこんな音がしていた。
「いるかもしれませんね。でも、それがどうしたんです」
「いや……。以前、ここに来たときはアパートの外で話していてもうるさいと怒鳴りつけてきた人が、どうして今日はこんなに静かなのかと――」
そこまで喋った時点で、黒葛川幸平は顔色を変えた。「まさか」と鬼塚刑事も声を出す。黒葛川幸平は、突如、ドアの横に取りつけられているドアホンを何度も押して、さらにドアを勢いよく何度もノックした。
「すみません、大熊さん。先日、お目にかかった黒葛川です。大熊さん。……開いてる。大熊さん、失礼します。入りますよ!」
黒葛川幸平は、大熊勇の部屋のドアを勢いよく開けた。
誰もが絶句した。有紗先輩などは思わず後ろに一歩、下がったほどだった。
うさぎの部屋と同じ六畳間の中央にて、大熊勇は大の字になってぶっ倒れていた。そして、その腹部を覆っている白いシャツは赤黒く染まっている。素人目にも分かるほど、明らかに、滅多刺しにされて、絶命しているのだ。
「やられた。第二の殺人だ。大熊さんがやられた!」
黒葛川幸平は怒りを隠せぬ表情で絶叫した。清瀬さんは唖然としていた。鬼塚刑事はさすがに素早く、携帯電話を取りだして、おそらく警察に連絡をしている。
さらに、さらに私は驚愕した。
仰向けに倒れている大熊勇の、ちょうど足下には一葉の写真が置かれていて、その写真は、明らかに盗撮ではあるが、なんと『ファリーナ』が入っている雑居ビルの前にいる有紗先輩の姿が映っていたのだ。
「な、なんで? えっ、わたし? どうして、わたし?」
有紗先輩本人はまったく身に覚えがないのか、完全にパニック状態で右往左往している。黒葛川幸平は、そんな有紗先輩をかばうように一歩、前へ出た。
「落ち着いてください。ここから逃げたりしないで。まだ犯人が近くにいるかもしれませんから。でも大丈夫。僕も、鬼塚刑事もいます」
冷静な判断である。私は黒葛川幸平に感服した。
けれど、それにしても有紗先輩の写真がなぜここに?
そして先輩の写真の下部分には、赤マジックで殴り書きをされていた。
『オマエハモウナニモスルナ ツギハオマエガコウナル』
「な、なにもしてないんやけど。わたし、言われなくたって、なにも、そんな。どうして、ど、どうして……!」
その言葉はもっともだった。
なぜ、有紗先輩なのだ。今回の事件でもっとも無関係で、捜査の中心にもいない、ただ首を突っ込んできているだけと言っていい先輩が、どうして殺人犯から脅されなければならないのか!
やがてパトカーのサイレンが聞こえてきた。
ここから、殺人事件の第二章が始まったのである。