午後五時半。『清瀬荘』に向かうと、入り口前には鬼塚刑事が立っていて、さらにその横では七十歳くらいと思われるお婆さんが、気難しそうな顔をしていた。
「黒葛川さん、どうもお疲れ様です。こちら、『清瀬荘』の大家さん、清瀬文子(きよせふみこ)さんです」
ここに来て私は、初めてこのアパートの大家さんの名前を知った。私たち三人は清瀬さんを相手に自己紹介と挨拶をした。清瀬さんはピョコンと頭を下げて、眉間に深いしわを寄せたまま、
「まったく、とんでもない事件だよ。こっちは旦那が残してくれたアパートで細々と食っている年寄りなのに、こんなことが起きてさ、お巡りさんは来るし、マスコミは来るし、野次馬も来るし。やっと少しだけ落ち着いたかと思ったら、次は作家先生だって。たまらんね、まったく。とにかく事件をさっさと解決してほしいよ。殺人犯があたしのアパートに来たかもしれないと思うと、怖くて夜も眠れん。……」
一気呵成に愚痴のマシンガンをぶっ放した清瀬さんだったが、大切な財産であるアパートを汚された悔しさや悲しみ、恐怖はよく分かる。むしろ自分の感情を打ち明けてくれたことで、正直な人だと思い、私は清瀬さんに好感を持った。
「それでは清瀬さん、長門さんが入っていた部屋の中を、お見せ願えますか」
「ああ、ええですよ。けれども、もう警察がずいぶん見ちまったし、中もある程度掃除しちゃってるよ。それでもええかね」
「構いません。協力に感謝します」
こうして私、黒葛川幸平、有紗先輩、鬼塚刑事の四人は、清瀬さんの先導に従って、うさぎの部屋の前まで進む。途中、あの大熊勇の部屋の前も通ったが、室内からは人の気配を感じなかった。私は清瀬さんに尋ねた。
「大熊さんはお仕事ですか?」
「さあ、昼にはおったようだけれど、そうじゃないかね。いつも夕方からご出勤のようだから。あんたたち、大熊さんのことも調べるのかい?」
「あ、いえ。ちょっとだけ気になったもので」
「あまり無関係の人の生活を、詮索するもんじゃないよ。はい、ここ、ここ。どうぞ入りなさい」
「お邪魔します」
清瀬さんが鍵を開けてくれたので、私たちはうさぎの部屋に入ることができた。
十二月だというのに、むわっと、むせ返るような、猛烈な臭いが私の嗅覚を襲った。有紗先輩もとっさに、鼻と口を手で覆っている。
「この臭いが、まだ消えん。長門さんの遺体の臭いよ。窓をずっと開けたりしているが、どうにも」
「専門の業者を呼ぶべきですね。この臭いはなかなか消えないんですよ」
「そうは言うがね、刑事さん、そんなお金はどこから出すんだい。簡単に言わないで頂戴よ。おたくは親方日の丸だから、経営の悩みなんか分からんだろうけどね」
「いやどうも、おっしゃる通りです。どうもすみません」
清瀬さんに叱られて、鬼塚刑事は頭をかいた。
「ここが現場ですね」
黒葛川幸平はもう靴を脱いで、室内に入っている。
室内は典型的な1Kの和室だった。部屋に入って靴を脱ぐなり、左手に小さな流し台があり、右手にはトイレと小さな浴室。正面は広さ六畳ほどの板張り。押し入れもなかった。
「本来なら畳が敷いてあるんだがね、事件のあとがあるから警察に渡した。事件が解決したら返しますというけれど、正直そのまま捨ててほしいね。新しい畳を入れないとどうしようもないから」
「畳の上は、汚れだらけだったんですね?」
黒葛川幸平が尋ねると、清瀬さんは大きくうなずいた。
「ああ、もう酷いもんだったよ。赤黒い血にまみれて、ぐっちゃんぐっちゃんになっていた人間の死体が、畳の上に、壁に、天井にと散らばっていて、それなのに両手首だけが、これもずいぶん痛んでいたようだけれど、手だけは無事に残っていてね。なんでそんなことをするのか、あたしにはさっぱり分からん」
「遺体は間違いなく、長門うさぎさんなんですよね?」
黒葛川幸平が、これは清瀬さんではなく、鬼塚刑事に向かって尋ねた。
「なにしろ遺体の損傷が激しすぎるもので、実のところ、確定、とは断言できんのですが、まず間違いはないでしょう。残された手の指紋は長門うさぎのもので、散らばった遺体の中から見つかった髪の毛も長門うさぎのものでした。グチャグチャ死体の血液型もO型――長門うさぎはO型でした」
「うさぎはO型です。間違いありません。小学校のころに聞いたので」
私も、補足するかのように言った。
黒葛川幸平はうなずいた。
「そこまでいけば、遺体が替え玉という可能性も確かに低いでしょう。……そして、遺体の一部がこのアパートの外に、置き配されていたんですよね?」
「そうです。長門うさぎの遺体――と思われるのですが。血液型O型の遺体が、粘土と混ぜられ固められた状態でビニール袋に入れられていました。それが普通郵便で複数、長門うさぎの家に届けられたのです。ポストはガムテープで封じられ、そのテープの上にマジックで『オキハイシテクダサイ』と書かれてあったため、配達員は封筒をそのまま外に置いた、と。なお郵便には差出人が書かれていませんでした」
「郵便の消印は? また、その他に痕跡は?」
「消印はこの町の中央郵便局で、十二月六日になっています。封筒も切手も、どこにでも市販されている普通のもので、指紋ひとつ、付着していませんでした。もちろん切手を舐めたりもしていません。水道水でつけています」
十二月六日は、うさぎがSNSに最後のログインをした日のはずだ。うさぎはSNSをやったあと、何者かに殺害され、郵便で『清瀬荘』に遺体を送られたと言うのか。いや、しかしそうなると、アパートの中にある遺体はどうなる? 部屋中に撒かれたうさぎの遺体は――
「ただ、ちょっとだけ不思議なことが。これは昨日分かったことですが、封筒のほうの遺体には、布テープの破片が少しだけ混ざっていたのですよ」
「布テープ……!?」
黒葛川幸平は目を丸くした。
「封筒のほうに布テープの破片ですか。部屋のほうには」
「そちらでは発見できませんでした」
「部屋には、ない? ……」
黒葛川幸平は、忙しく部屋中を見回すと、雌雄眼を鋭くさせて、
「清瀬さん、この部屋、掃除する前はどうなっていましたか? 家具や家電はどのようなものでしたか?」
「はあ、はあ。家具は布団と小さなテーブルくらいでしたねえ。家電は、流しの前に冷凍冷蔵庫がひとつ、電子レンジがひとつ、ケトルがひとつ、ワイファイと言うんですか、インターネットの道具も確かありました。でもほとんどに遺体がこびりついて汚れたもんですから、警察が調べたあと、もう捨ててしまいましたが」
「遺体が……それは布団や冷蔵庫やレンジ、ケトルの中にもこびりついていましたか?」
「いいえ、いいえ。レンジやケトルの中は綺麗でしたよ。いやレンジの中はちょっと食べ物のカスみたいなのがついていましたがね、それはどこのご家庭でもそんなもんでしょう。それと布団も綺麗でした。ただ冷蔵庫はね、冷蔵庫も冷凍庫も、中にグチャグチャの遺体が入っていましたね。冷凍庫に入っていた遺体なんてカチカチになっちまってね」
「冷蔵庫の中にまで、遺体が?」
黒葛川幸平は、さらに考え込む顔を見せる。
「はい、そうです。……ああ、それと、そこ、エアコンもあります……。エアコンだけは、長門さんのものでなくて、清瀬荘に最初からついていたものですがねえ」
部屋の上部分には確かにエアコンがついていた。
ちょっと型は古いが、なんてことのない、ごく普通のエアコンである。
「このエアコン、つけてみていいですか?」
「はいはい、どうぞ。ここにリモコンがあります」
流し台の上にリモコンが置かれてあった。清瀬さんの許可を得て、黒葛川幸平はエアコンのスイッチを入れた。
エアコンはガタガタと震えたあと、一気に、冷たい風を勢いよく噴き出してきた。
寒い。私は思わず身震いした。
「ちょ、ちょっと、黒葛川さん、寒いよ。なんで十二月に冷房をつけるの」
「僕が冷房にしたかったんじゃありませんよ。運転のボタンを押したら、冷房になっていたんです。しかも設定温度が最低の十八度。その上、風の強さも最強になっています。これ、清瀬さんがしたんじゃないですよね?」
「しない、しない、していませんよ、そんなの」
清瀬さんは慌てたようにかぶりを振った。
黒葛川幸平は、黙り込んで、冷風を吐き出し続けるエアコンを見上げた。
私も疑問を感じていた。こんな寒い季節に、エアコンの温度が十八度に設定されている? その理由は……?