うさぎは三十日、誰からの連絡もないのに、友人との飲み会を切り上げたことになる。それはなぜ?
しかもその後、うさぎは丸一日以上、家に帰っていないのだ……。
「もっとも、スマホそのものは押収していないので、なにかそちらだけの連絡があったのかもしれませんが、電話会社や通信会社を調べたところでは、それらしいものはなにもありませんでした」
「うさぎのスマホはどうなったんでしょう?」
私が尋ねると、鬼塚刑事はまたかぶりを振って、
「分かりません。それは見つかっておりません」
「刑事さん、そんなこと、迂闊にペラペラ喋っていいの? まあぼくたち、口は堅いほうだけれどさ」
ヒゲのイケメンが、ニヤニヤ笑いながら言った。鬼塚刑事は、しまったとばかりに頭をかいて、
「……いまのは、聞かなかったことにしてくださいよ」
「了解、了解。正義の味方、お巡りさんを困らせるようなことはしないよ。ねえ?」
「ねえ、じゃねえよ。お前が一番困らせそうじゃねえか、この迷惑系ユーチューバー」
「うわ、迷惑系と一緒にすんなって。冒険系だって、ぼくは」
イケメンとヒゲのイケメンが軽口を叩き合う。鬼塚刑事はバツが悪そうに沈黙し、有紗先輩が「まあまあ、飲みましょう」と言って坂本氏にビールを注文した。
「ふむふむ、こうなると長門さんは、急用でも思い出したのですかね。しかし……。すみませんが皆さん、もう一度よく思い出してください。三十日当日の、長門さんと皆さんの行動を。長門さんは皆さんの他に誰かと話をしたりしませんでしたか?」
「……してないと思いますよ」
赤髪が、宙を見つめながら言った。
「いま思い出しているんですけれど、午後九時に『ファリーナ』に集まって、飲み始めて……。ああ、でも途中でうさぎちゃん、一度だけ手洗いに立ったよね?」
「ああ、そういや、行っていたな。ビルの共用トイレに向かったんだよな。でも、わりとすぐに戻ってきたぜ。そんで十時くらいになったら、一次会で帰るって言いだして。で、十一時に帰った」
「ぼくもそう記憶してる。手洗いもせいぜい五分くらいだったかな」
「じゃあ、そのトイレのときになにかがあったんかな?」
有紗先輩がそう言うと、待っていましたとばかりに鬼塚刑事が手を挙げて、
「そのことについてですが、ここにいる西村さんは『なにもなかった』と証言しています。まさにこの証言のために西村さんをお呼びしたんですが、西村さん、もう一度証言をお願いできますか」
「は、はあ。分かりました」
西村克広は、オドオドした調子でコーラを一口飲むと、
「ええと、私は西村克広、三十七歳です。職業はアルバイトで、昼は隅田川沿いにある冷凍倉庫会社の警備、夜はこの雑居ビルなど、繁華街のビルのいくつかを清掃する仕事をやっています。それで三十日当時も、このビルの『ファリーナ』の前を掃除していたんですが、そのとき確かに、長門さんがビルの共用女子トイレに入っていくのを目撃しました。そして五分ほど経って長門さんがトイレから出てきましたが、そのときはちょっと、思いつめたような顔をしていましたね」
「思いつめた、ですか。……その後、女子トイレになにか異常は?」
「なかったと思います。思います、というのは女子トイレを担当するのは私でなくて、もうひとりいる女性のアルバイトが担当するからなのですが、そのバイトからも、特に報告は上がっていませんでしたから」
「その女性のバイトは本日、都合が悪くて来られないそうです」
と、鬼塚刑事が言った。
「そちらは七十代の女性ですが、十一月三十日以降は完全に職場と家庭の往復だけであることを、数々の証言と防犯カメラの映像で確認済みです。まず事件には無関係でしょう」
「ふむ、いや、ありがとうございます、西村さんも、鬼塚刑事も。よく分かりました」
黒葛川幸平は、ふたりに対して深々と頭を下げた。
とりあえず、ここで聞けそうな話はもうなさそうだ。だが、事件はいっそう闇を深めてきた。飲み会を一次会で帰ったうさぎは、なにを考えていたのだろう。
「これで三十日における長門うさぎさんの行動が、ある程度分かりました。なにしろ三十日が過ぎたあと、長門さんは自宅アパートに戻り、それから殺害されるまでずっとひとりなんですからね。長門さんと最後に会話を交わした皆さんの証言をこの耳で聞けてよかったです」
「ああ、そうそう、うさぎの家ってマジであのアパートなのな。あれ、やばかったよな」
「普段はあんなに、あたし素敵、って顔していたのにな。あれ、めちゃくちゃ見栄張ってたんだな」
「パパ活してたのにあの家だもんね。稼いだお金、どこにやったんだろう。たぶん服とか化粧品だと思うけれど」
「俺たちと付き合う金じゃね? 無理してたんだなー、あいつ」
三人が次々と嘲笑を浮かべる。こういうときの人間の顔はたまらなく醜い。いよいよ私はここにいたくなくなった。西村克広が「あの、そろそろ仕事があるので」と言って、出ていこうとしたが、私もそれに続きたかった。だが有紗先輩が「もう帰るん?」なんて、余計なことを言い出す。ありがたいことに黒葛川幸平が、
「僕はお暇します。考えたいこともありますからね」
「んー、黒葛川さんが言うんじゃ仕方ないかあ。じゃあ仕方ないですね。わたしも帰ろっと」
「瀬沼さんはもうちょっと残りなよ。君、可愛いし、楽しそうだから。俺らの仲間になってもいいよ」
イケメンが馴れ馴れしい。
私はこの手の男が本当に大嫌いなのだが、有紗先輩はまんざらでもなさそうに「あはは」と笑いながら、
「ありがと。でも今度にしますよ。また事件のこと、聞きにくるかもしれないし。あ、どうせなら次はあの『清瀬荘』にいたうさぎさんのお隣さんも連れてこようか。なにか分かること、あるかもしれないし」
「あんな人、来ますかね……」
あんな短気そうな隣人をこんな場に呼んだら、どうなることか。大喧嘩が始まりそうだ。
「あの、それじゃ私は本当にこれで」
「ああ、そうだ、西村さん。すみませんが、多田羅さんたちにも。最後に確認しておきたいことがあります」
黒葛川幸平は穏やかな笑みを浮かべて、
「長門さんが最後に目撃された十二月五日から、遺体発見の八日まで。その間、皆さんのアリバイを証明してくれる人はいらっしゃいますか? すみません、これは全員に聞いているのですが」
「それなら、もう刑事さんに言ったけれどなあ。五日から八日までは俺、レコードの買い付けのために大阪に行っていました。別の業者さんといつも行動を共にしていたし、夜はホテルに泊まっていましたよ。女の子付きで」
「はいはい、女たらし、女たらし。ぼくはユーチューブの収録に山梨まで行っていました。ぼくも仲間と一緒に行っていたんで、そっちにアリバイを確認してください。電車で行ったので、駅の防犯カメラとかにも写っているんじゃないかな」
「ずっとネイルアートのお店で働いていました。夜はひとり、だけど五日と六日は夜、後輩と神田まで飲みにいってましたね」
「五日から八日までならば、私はずっと、家と職場の往復です。出退勤記録などを見てほしいですね。五日の午前十一時に冷凍倉庫会社に出勤して、午後六時に退勤、その後は清掃の仕事、という感じなので。毎日です」
イケメン、ヒゲのイケメン、赤髪、西村克広がそれぞれ主張した。
横から鬼塚刑事が、
「多田羅さんたちのアリバイは、いまの言葉通りです。すべて警察で確認済みです。もちろん、ずっと誰かと一緒ではなく、十分、二十分くらいなら一人だった時間もあると思いますが」
鬼塚刑事の言わんとすることは私にも分かった。そんな短い時間でうさぎを殺害し、バラバラにするのは無理だ。アリバイを聞く限り、この四人はシロだった。
「いやいや、どうも、分かりました。すみません、つい確かめてしまって。たいへん失礼しました」
黒葛川幸平は頭をかきながら赤面し、
「どうもすみませんでした、西村さん。それでは今度こそ解散しましょう。お手数をおかけしました。僕らもこれで……」
黒葛川幸平が完全にまとめに入った。
イケメンたち三人組は店に残るらしい。黒葛川幸平は、やってきた坂本氏に、ひとまず一万円を渡すと、「あの人たちが飲み食いして、足りなかった分の飲食代は、黒葛川幸平事務所に請求書を送ってください」と言って名刺を渡していた。警察官のお墨付きということもあってか、坂本氏は了承してくれた。
雑居ビルを出る。雨はもう上がっていた。西村克広は無言で一度、頭を下げるとその場を去っていった。黒葛川幸平は、西村克広の背中を見送っていたが、やがて彼が群衆の中に消えていくと、鬼塚刑事のほうを振り返って、
「実のある話ができました。今日はどうもありがとうございました」
「いえいえ、黒葛川さんのお役に立てて光栄ですよ。なにしろこれほどの怪事件ですからね。警察も黒葛川さんの調査に期待しています。よろしくお願いします」
「警察が、そんなに黒葛川さんを頼りにしているんですか」
私が尋ねると、鬼塚刑事は頭をかきながら、
「本当に手に負えそうにない事件のとき、よく手助けしてくださいますから。もちろんこれは外には秘密ですが。……さて、では私はこれで。なにかあったら署まで連絡をください。ではまた明日」
鬼塚刑事も去っていった。
残されたのは私と有紗先輩、そして黒葛川幸平である。
「また謎が深まりましたね。うさぎはどうして、誰に殺されたのか」
「パパ活関係者じゃないの? パパ活相手の男に、お金で揉めて殺されたとか」
「いやいや、どうも。これで殺害現場がホテルとかなら、その可能性が大いにあるんですが、あの自宅アパートに遺体があったのが、もうひとつ不思議で。それにこれは鬼塚刑事と電話で話したことなんですが、長門さんと接点のあったパパ活関係者はみんな、やはりアリバイがあったそうで」
黒葛川幸平は腕を組んで、ふーっと深呼吸をした。
「ところでさあ、秋。あんた、うさぎさんと親友だったんよね。それなのに、あの多田羅さんとかとは知り合いじゃなかったの?」
「知りませんでしたよ、あんな人たち。先輩だって、中学の友達と高校の友達が知り合いだったりしないでしょう? 例えば私だって先輩の同級生、ひとりも知りませんし」
「それもそうやね。うーん、ますますなんだか、分からなくなってきたなあ。黒葛川さんはどう思います?」
「まだ不明なことが多すぎますね。『ファリーナ』を出たあとの長門さんの行動が分かれば、別の景色も見えてくるんですが。ともあれ僕は明日、長門さんのアパートに行ってみるつもりなので、そこでまた新情報が得られたらいいなと思っています」
「うさぎのアパートに?」
「はい。警察の許可も、大家さんの許しも取れましたので」
そこで私はつい先ほど、鬼塚刑事が去り際に、また明日、と言った意味が分かった。
「どうですか、汐見さんも明日、来ますか?」
「行きます。一度でいいから、うさぎのアパートの中を、この目で見たかったので」
「瀬沼さんは?」
「そりゃあ、行きたいですよ。黒葛川さんのお力にもなりたいし。ただ」
「ただ?」
「わたしと秋、これからバイトなんですよ。体力、持つかなあって」
結局その後、私と有紗先輩は栄養ドリンクを飲んで必死に仕事をやり抜いたあと、朝方にはネットカフェ内の仮眠室でぐっすりと寝込んでしまったのである。