男を警察に引き渡し、救急車に女性を乗せるとボク達は西河邸へと舞い戻った。
広いリビングでは板倉さんが紅茶を用意して待っていてくれた。その席には安治さんも座っている。
心配と安堵が混じり合う中、サラさんはあっけらかんと笑った。
「予定とは違ったけど、ただいま帰ったわ」
「おかえり」と安治さんは言った。「なにがあったんじゃ?」
「あら。それはこの探偵さんが知っているんじゃなくて?」
サラさんは面白そうにボクを見下ろした。どうやら試されているらしい。
「……まあいいでしょう。もうお分かりでしょうが、サラさんは密室を作ったあと、お友達のところに行っていました。お友達とはもちろん今回被害に遭った伊藤さんです。伊藤さんには付き合っている彼氏がいました。その彼氏とは居場所を書いたCDから考えるにバンドのメンバーでしょう」
ボクは板倉さんが隠していたCDを持ち上げた。
「生憎この『スペクルド』という名前は聞いたことはありません。このCDには事務所の名前も書いていないことから名もなきインディーズバンドであることは明白です。おそらく収入はほとんどなかったでしょう。そんな男が生活していくためには資金源が必要です」
ヘレンさんは憐れむような目をした。
「それがあの方だと?」
「そうです。男は金銭面で彼女に依存ないし寄生していました。しかしそれに耐えかねた伊藤さんがカネを渡すことを断り、それに怒った男が伊藤さんを監禁したのでしょう。男からすれば貴重な収入源を失うわけですから必死です。ですが伊藤さんは監視をかいくぐってサラさんに連絡を取り、サラさんは救出に向かった。違いますか?」
「大方その通りよ」とサラさんは頷いた。「でも助けに行ったところをあいつに捕まっちゃったの。あいつったら卑怯なのよ。伊藤先輩に危害を加えられたくなかったら大人しくしろって。あれがなかったら私一人で倒していたわ。実際あいつが宅急便を受け取っている隙に紐を外して武器を手に入れたしね。戻ってきたのはあいつじゃなくて探偵さんみたいだったけど。ボールペンが当たらなくて本当によかったわ」
「ははは……」
あれは本当に恐かった。和藤がつかみ取ってくれなかったらどうなっていたか。
ヘレンさんは不思議そうに尋ねた。
「だけどお姉様はどこであの女性と知り合ったのですか?」
サラさんはニコリと笑って答えた。
「私が伊藤先輩と出会ったのは高校三年の時だったわ。学校帰りに近くの公園でスペクルドがライブをしてたの。そこで先輩がCDを売ってて、応援するつもりで買ってみたらライブハウスにも来てみてって誘われたわ。それからはたまに友達と家を抜け出して聞きに行ってたの。迎え来てもらった時は口笛を合図にしてね。電話やメールだと見つかった時に外へ出ていた証拠が残っちゃうから。知らないでしょうけど裏の柵は腐食して簡単に通れるのよ。お父さんが植えた草花のせいで中からも外からも見えないしね。バレないようにするのは大変だったわ。板倉に見つかったらうるさいでしょうから」
サラさんがかわいらしく舌を出すと板倉さんは呆れていた。
「奥様が生きていたらどう言っていたか……」
「こんな風にね。でも大学に入ってからスペクルドは解散しちゃったわ。あいつは次のバンドが決まるまでの間って言って伊藤先輩の家に住み始めたの。それが悪夢の始まりだったわ。先輩は仕送りもバイト代もあいつに取られて、それが半年続いたの。相談を受けた私は引っ越すべきと言って、先輩も実際にそうしたわ。あの男がパチンコに行っている間に逃げたのよ。みんなで荷物を運び出してね。しばらくは平和だったわ。あいつのことを忘れてまたいつも通りライブハウスに行ったりして。でもあの男は猟犬のように先輩を探して部屋に上がり込んだの。そこで連絡が来て、私が助けに行ったってわけ。密室を作ったのは私一人でどうにかなると思ったけど、一応保険をかけておいたのよ。鍵を置いて出たら誘拐されたと思ってヘレンが騒ぐはずだからね」
「ええ」とボクは頷いた。「そこまではサラさんの計算通りでした。しかし誤算もあった。一つは咄嗟にCDを隠した板倉さん。そしてもう一つはお父様の安治さんです。安治さんはサラさんが時折屋敷から抜け出していることを知っていた。そしていつも無事に帰ってきていることも。だから今回もそうなのだろうと気にとめなかった。そうですね?」
安治さんは小さく息を吐いて頷いた。
「そうじゃ。研究所からはサラが通る柵が見えるんじゃよ。鏡越しじゃからサラは気付いてないじゃろうがな」
「あら。やられたわ。私がヘレンに使った手をパパも使ってたのね。でもどうして止めなかったの?」
「止める必要がないと思ったからじゃ。こんな時代じゃ。女も強くなくちゃいけない。強さとは経験じゃ。生き物は皆環境に適応し、敵から身を守るために進化する。人も同じじゃよ。守られて育った者は外に出るとあまりにも脆く散るものじゃ」
「なら私は教えを守ったことになるわね。この探偵さんがいなくても脱出できたんだから」
サラさんはチャーミングにウインクした。するとヘレンさんはぷくりと頬を膨らました。
「そうならなぜお父様は黙っていたのですか? 言ってくれたらよかったのに」
「……見逃しているのがバレたらまた甘やかしていると板倉に怒られると思ったのじゃ」
安治さんは大きな体でしゅんとした。板倉さんはまた呆れて嘆息している。
「それは悪うございましたね。ですが奥様が亡くなられる前にお嬢様方を頼んだと仰せつかったのです。甘やかしてばかりではそれこそ脆く散りますよ」
そう言われて安治さんはまた大きな体を丸めた。ヘレンさんは首を傾げる。
「じゃあ地下室を見せてくれなかったのはなんだったんですの?」
「これじゃよ」
安治さんは後ろに手を伸ばし、そして小さなカゴを取りだした。その中には可愛らしいうさぎが入っていた。
「まあ。うさちゃんですわ!」とヘレンさんは目を輝かせる。
「もうすぐヘレンの誕生日じゃからな。知り合いの学者から譲り受けておいたのを隠していたのじゃ。驚かせて喜ばそうと思っていたのじゃよ」
まさかそんなものを隠していたとは。サラさんの事と言い、案外子煩悩らしい。
一気に空気が和んだかと思えば、ヘレンさんは一変して心配しだした。
「あの伊藤さんという女性は大丈夫なのでしょうか?」
サラさんは「……どうかしら」と煮え切らない返事をした。
「先輩は言ってたわ。あの男も昔は夢を追ってがむしゃらに努力をしていたと。だから先輩はあいつを応援していたし、貢いだそうよ。案外そうやって自分に足りないものを補っていたのかもしれないわね。だからこそ惚れた弱みにつけ込まれた。最初は離れた方が良いって言う私や周りの意見も聞きたくなさそうだったわ。先輩が逃げ出したのはあの男にまだ夢を持っているのかと聞いて、分からないと返ってきたからみたい。もしかしたらこれからも先輩は夢を語る男に惚れてしまうかもしれないわね。夢を持たないからこそ、それはきっと輝いて見えるのよ」
ボクもそんな気はしていた。男が警察に連れて行かれる時、あの伊藤という人はずっと泣いていたからだ。あれはあの男のことが大事だと言うより、あの男に重ねていた夢を失った痛みのせいかもしれない。
なんにせよ。ボクらがあそこに行った時、彼女と夢を結んでいた紐はプツンと切れてしまったのだ。