またあの紐 下
シャーロック・ホームズはその卓越した推理力からインドア派だと思われがちだが、実はボクシングやフェンシング、そして武道などに精通している武闘派だ。
その上曲がった鉄の棒を素手で真っ直ぐにできるほどの力持ちだった。だからどんな悪漢と対峙しても常に飄々としていられる。
だが生憎ボクはへなちょこだ。格闘技もしたことがないし、なんだかんだ言ってお嬢様だから重い物を持つことすらない。握力だって十キロしかなかった。本当は九キロだけど。
だがヘレンさんの父君はそんなボクとは正反対の怪力を保持していた。
真鍮製のドアレバーをどう握ればあんな風に波打つのだろうか。あの力で捕まれたらボクの頭はカバに砕かれるスイカみたいな末路を辿るだろう。
ボクがガクガクと震えていると前に出た和藤が構えた。
それを見てヘレンさんの父、安治さんは皮肉めいた笑みを浮かべながら白衣を脱いだ。シャツの上からでも分厚い筋肉が分かった。首には紐を通した鍵をかけている。
「日拳か……。面白い。カレリンを投げたわしを前になにができるじゃろうな」
「どうとでもしてみせましょう。ほむら様に向かう全ての脅威を排除するのが私の役目ですから」
二人の視線は強烈にぶつかり合い、空気がビリビリと揺れる。そして緊張が最高潮に達した瞬間、ヘレンさんが安治さんをコツンと小突いた。
「お父様! ダメですわ! またドアを壊したりして! お姉様が帰ってきた時に怒られますわよ!?」
「…………すまん。つい力が入ってしまったのじゃ」
怒られた安治さんは打って変わってしゅんとなり、娘に謝った。
空気が緩むと和藤は構えを解き、心配そうにボクの方へ振り向く。
「大丈夫でしたか?」
「む、無論だ」
本当はちょっと漏らしかけたけど。
「替えの下着が必要ならすぐに持ってこさせます」
バレてるし。
「い、いらぬ心配だ! 君がなにもしなくてもボクが本気になれば楽々と倒していたさ!」
すると和藤は優しく微笑んだ。
「そうでしたね。差し出がましい真似をしてしまいました。お許しください」
謝る和藤を見てボクは自分の無力さを実感した。これからはもう少し体育を頑張ろう。
安治さんはドアレバーを拾い上げるとぐっと伸ばして元に戻した。
「とにかく探偵などの世話にはならん。小僧を連れて早く帰るのじゃ」
「ボ、ボクは女だ! それに探偵はこのボク、写楽ほむらだぞ!」
「写楽? ああ、岩葉のところの小童か。なら尚更じゃ。名家のボンが他人の家に首を突っ込むのは些か礼儀に欠けるんじゃないか?」
「普通ならそうでしょうがこれはおたくの娘さんから探偵であるボクへの依頼です。それにサラさんは密室の状態から連れ去られている。どう考えても普通ではありません。あとボクは小僧でもボンでもありません」
「だとしてもじゃ。小僧」
まだ言うか。
安治さんは屈んでボクと目線を合わせた。
「強さとは何かを乗り越えた先にあるものじゃ。気にせんでもあの子は帰ってくるじゃろ」
あまりにもまっすぐで正しい言葉にボクは思わず口ごもった。
するとヘレンさんは心配そうに口を挟む。
「でも強盗に連れ去られたかもしれませんわ」
「心配はいらん。その強盗も先日捕まったと警察から連絡が来ている。少々派手にやりすぎたようじゃな」
強盗じゃない? だからこの人はそれほど心配していないのか。
しかし説明を受けてもヘレンさんの心配は収まらなかった。
「だけど事故があってどこかに閉じ込められているのかもしれません。そう言えば地下室はちゃんと見てくれたんですか?」
「地下室?」とボクが尋ねるとヘレンさんは頷いた。
「研究室には古い地下室がありますの。なんでも戦争の時に防空壕として作ったとかで」
安治さんは大きな手を娘の肩に優しく乗せた。
「問題ない。見てきたが誰もおらんかった」
「でも見落としているかもしれませんわ。どうか一緒に連れてってくださいまし」
「それはならん」
安治さんはかぶりを振った。ボクは怪しみ、「なぜですか?」と尋ねる。
「危ないからじゃ。あそこは古い。いつ壁が崩れてもおかしくない」
「でも研究所を作った時に改修したとおっしゃってたじゃない」
ヘレンさんにそう言われ、安治さんはばつが悪そうにする。
それが本当ならどうしてこの人は地下室からボクらを遠ざけようとするんだ?
「……とにかくダメじゃ。あんたらもいらぬお節介はやめてもらいたい。もうわしは研究に戻る。昨日シロマダラヘビの卵が孵化してな。とても忙しいんじゃよ」
安治さんはそう言うとドアにドアレバーを強引に戻し、部屋から去って行った。