密室。
その甘美な響きに誘われて、ボクはこの依頼を引き受けた。今は和藤の運転で早速西河邸に向かっているところだ。
西河邸は聞いていた通りの豪奢な建物だった。色とりどりの草花が植えられた西洋風の広い庭に中世イギリスの荘園に建っているものをそのまま持ってきたような大きな屋敷が佇んでいる。ボクの家は如何にも和風という感じなのでこういった建物は憧れた。
「こちらですわ」
ボクが目を輝かせているとヘレンさんが中を案内してくれた。
喜んでついて行くと後ろで和藤が囁いた。
「あなた様。どうか本懐をお忘れなきようお気を付けください」
「心得ているさ。ボクが密室の謎を解き、この事件を解決してみせる!」
ボクがそう言うと和藤は小さく息を吐き、静かにあとをついて来た。
ヘレンさんが玄関を開けると中には四十代くらいの家政婦さんがいた。黒縁の眼鏡と少し恐い目。髪はオールバックにして後ろでまとめている。
若い女の子がメイド服を着るとコスプレみたいになってしまうが、この方はきちんとした家政婦さんという感じだ。変な装飾もないクラシックな雰囲気も美しい。
「メイドの板倉さんです」
ヘレンさんが紹介すると板倉さんは静かにお辞儀をし、低い声で尋ねた。
「こちらの方々は?」
「探偵さんですの。後ろの殿方は助手をなさってますわ」
「……そうですか」
眉の一つも動かさないそれはそれは無愛想な受け答えだった。
ヘレンさんは苦笑して小声でボクに言った。
「板倉はとっても厳しいんですの。ちょっとでもお行儀が悪いと鬼みたいに怒るんですわ」
聞こえていたのか板倉さんはわざとらしくコホンと咳をした。
ヘレンさんはウインクしながら舌を出すという昭和のアニメみたいなリアクションを取ると歩き出した。
「寝室は離れの二階ですわ。こちらとは渡り廊下で繋がっているんです」
歩いてみると屋敷は随分古く見えた。その一方で防犯意識は高いらしく、所々頭上には防犯カメラが設置されている。
渡り廊下を渡ると小さな離れがあり、そこの二階が寝室になっていた。
「手前から父、わたくし、姉の順になっています。でも父はほとんどここでは寝てません。研究室にお布団を敷いてそこで寝てますわ。廊下の奥は避難階段になっていて、そちらのドアはオートロックなんですの」
「家政婦さんは?」
「板倉は近所に住んでいて、朝食を作りに来て、夕飯の片付けが終われば帰りますわ」
「じゃあお姉さんが消えた時、ここにはあなたとお姉さんだけだったということですね?」
「そうなりますわね」
「ほむう。中を拝見しても?」
「どうぞ」
そう言うとヘレンさんは鍵を取りだし、お姉さんの部屋の鍵穴に差して回した。
「あれ? その鍵はお姉さんのなんですか?」
「いえ。わたくしのです。姉の部屋とわたくしの部屋。あと父の部屋と離れの出入り口は全て同じ鍵なんですの」
「それはまたどうして?」
「だって面倒ですから。部屋を行き来したり離れに帰るたびに鍵を探していては大変ですわ。昔はそうだったみたいですけど、父が全て変えたそうです」
「なるほど。鍵は全部で何本ですか?」
「わたくしと姉、父と板倉が持つ四本です。でもあの朝も父は研究室にいたでしょうから三本というのが正確かしら」
「ご丁寧にありがとうございます。では中を見せてください」
ヘレンさんがドアを開けると中は意外にもシンプルだった。ボクの部屋と同じくらいの広さだから十六畳ほどだろう。
ボクはこれが普通だと思っていたが、前にその話をした時沢森は呆れていた。一人暮らしだとみんな七畳程の部屋に住んでいるそうだ。和藤は「うちは十畳ほどの1DKで三人暮らしです」と言っていたからボクの感覚は当てにならない。
ボクは入室するとゆっくり中を見渡した。
クイーンサイズのベッドにマホガニーの机とタンス。アンティークのドレッサーの上には手鏡と化粧品が置いてある。カーテンはシルク製だ。暖炉もあったが今は使ってないらしく、マントルピースの上には写真立てがあった。
映っている五人は髭を生やした大柄の男と綺麗な西洋風の女性。そして小さな女の子と乳飲み子だ。おそらくあの赤ちゃんがヘレンさんだろう。若かりし板倉さんもいる。
「鍵はどこに?」
「この机の上ですわ。窓もカーテンもドアも全部閉じてました」
ボクは窓の方に向かった。言っていた通り上の方に小さな鍵がついていて開け閉めできるが、この小ささだと子供でもない限り出入りはできないだろう。
部屋を見ていたボクはあるものを見つけて入り口側にある部屋の角を指さした。
「あれは?」
そこには縦に長い直方体の穴が空いていた。
「え? ああ、あれは昔の名残ですわ。昔の人はあそこに紐を通して外に鈴か鐘をつけていたみたいなんです。それを鳴らして使用人を呼んでいたみたいですわ」
「じゃあ外にも繋がっているんですね」
「いいえ。今は塞がっているはずです。でも隣の部屋には繋がってますわ。昔はよくあの穴越しに姉と話をしてましたから。椅子に乗って背伸びをして。姉が中学生になった頃にはこちらから板で閉じちゃいましたけど」
「でも今はなにもないみたいですよ」
「え? あら。本当ですわ。板が取れちゃったのかしら? あ。そこに落ちてますわ」
ヘレンさんの言う板はタンスに立てかけられていた。
「落ちてしまったけどはめるのが面倒になったんでしょうか?」
「かもしれません。でもいつからなんでしょう? わたくしよく部屋で歌うので最近だったら苦情がくるはずなんですけど」
ヘレンさんは恥ずかしそうに肩をすくめた。
それが本当ならごく最近なんだろう。もしかしたら密室の謎と関係があるのかもしれない。あの窓と言い、この穴と言い、怪しいところはたくさんある。
ボクが訝しんでいると和藤が机の上に置いてあったCDケースの蓋を開けていた。ジャケットを見る限りブラームスらしい。
ボクはヘレンさんに尋ねた。
「お姉さんは音楽をしていたんですか?」
「ええ。ピアノを。でも大学受験の辺りからあまり弾いてないと思います」
でもピアノはあるということだ。ピアノ線を使ったトリックを用いたんだろうか?
外に出て鍵をかけ、その鍵をあの穴からピアノ線を通して机の上に戻した。
でも誰がなんの目的で?
「ほむう。では事件当日のことを話してくれますか?」
「えっと、朝にわたくしが起きて食事を取るためにダイニングルームに行ったんです。そしたら姉がまだで。いつもならわたくしの方がお寝坊なのに珍しいと思いました。それから食事を終えてから姉を呼びに行ったんです。そしたら鍵が閉まっていて。そこにちょうど板倉も来たのでわたくしの鍵を使って二人で中に入ったんです」
「すると中には誰もおらず、鍵が机の上に置いてあったと」
「そうですわ」
そこで和藤がヘレンさんに尋ねた。
「鍵を見つけたのはどちらですか?」
「え? えっと、板倉です。わたくしはベッドの方を探しに行ってましたから。まだお布団の中にいると思ってめくったら誰もいなくてびっくりしてました。でもどうして?」
「いえ。少し気になっただけです」
ボクが和藤を怪しむといつも通り柔らかい笑顔が返ってきた。しかしどこかいつもより真剣みがある気がするのは勘違いだろうか?
鍵を見つけたのが誰か。それがそんなに大事なこととは思えないが……。
ボクはもう一度部屋を見渡した。しかしこれといったヒントは落ちてない。
「お姉さんの部屋を開けられる鍵は四本もあったんですよね。ここに一本。あなたが一本持っていたとして、他の二本が賊に盗まれたとは考えられないですか?」
「それは思いました。でも板倉は持ってましたし、父もそうでしたわ」
なら外部犯の線は薄いじゃないか。つまり二人の内どちらかが犯人?
いや、ヘレンさん自身が犯人である可能性も捨てきれない。どうしてボクらをここに連れて来たかは分からないが、あるいは利用するつもりかもしれないな。
賊が鍵を盗んでからそれを使ってお姉さんを誘拐し、また戻したとも考えられる。その場合は力の強い父親ではなく板倉さんを狙うだろう。一度外に出ると朝まで戻ってこない板倉さんなら家に忍び込み、鍵を拝借するのはそう難しくない。
どちらにせよ鍵が外に三本もあるなら密室としてはかなり弱く、稀に見る貧弱密室ということになる。もしこれがミステリー小説なら暴動が起きかねない。
「ほむう」
ボクは顎に手を当てた。どうやら内部犯の可能性が高いみたいだ。でもそれなら動機が分からない。
板倉さんの場合は身代金だろうか? でもお姉さんが解放されればすぐにバレるはず。
お父さんの場合はなんだ? しつけか?
そこまで考えてボクはハッとした。
まさか殺人? どちらかがお姉さんを殺して屋敷のどこかに埋めてしまったのでは?
それがバレないように密室を作り出した? そ、そんな恐ろしいことが起きていたらどうしよう……。
ボクは内心ビクビクしながら和藤を見上げた。もし殺人だとして和藤がそれに気付いていたらと思ったからだ。
すると和藤はいつもより険しい顔をしていた。醸し出す雰囲気も少し恐い。
やはり殺人なのか? だから和藤はこうもピリピリしているのだろうか? もしそうなら警察を呼んだ方がいいのでは? 真実を見つけた瞬間、ボクらは殺されてトカゲの餌にされてしまったらどうしよう……。
ボクが震えていると和藤がそっと肩に触れた。泣きそうになりながら見上げるとニコリと微笑んだ。
「ご安心ください。なにかあっても私がお守りします。ですからあなた様は事件を解決することに集中してください」
「や、やっぱりさつ――――」
ボクの言葉を遮るようにドシンドシンと地鳴りが聞こえたかと思うと、ドアが開き、そこから大柄な男がぬっと入ってきた。
百八十センチある和藤よりも大きい二メートル近い身長に豊かな白い髭を蓄え、ボクの腰より太い腕が二本生えている。肩の筋肉が発達していて白衣が盛り上がっていた。体の厚みも人の三倍はあり、足は巨木のように太かった。
体毛も濃くてまるで怪獣だ。動物園で見たヒグマみたいな体をしている。
その男は眼鏡をかけ直すとボクと和藤を見下ろした。
「……そちらは?」
男はバリトンより低い声で尋ねた。
「探偵さんですわ」
ヘレンさんはそう答え、笑顔で男をボクらに紹介した。
「父ですの」
嘘つけ! 全然似てないじゃないか! 遺伝はどうなってる! 遺伝は!
西河安治がズシンズシンとやってくると和藤が守るように震えるボクの前に出た。
安治さんはそんなボクらに静かに告げた。
「お節介者じゃな。どうぞお引き取りください。これはたわいもないことじゃ」
そう言うと安治さんは握っていた巨大な拳を開いた。すると何か重い金属がゴトンと音を立てて床に落ちる。
おどおどしながら見てみると、それは握力で変形した真鍮製のドアレバーだった。