ところがどっこい、恥ずかしながらボクは何事もなく放課後を迎えてしまった。
不徳の致すところだがまだまだホームズを名乗るには力不足らしい。
真里亞は吹奏楽部に行ってしまったし、このままじゃまた謎を探すためのどさ回りだ。
しかしこんなボクにも幸運の女神が現れた。
やって来たのは三角定規の髪留めを付けた少し大人っぽい女子だった。ショートカットはボクと同じだが、ボクとは違って癖毛じゃないのが羨ましい。
彼女はクラスメイトにボクのことを尋ねるとこちらにやって向かってきた。
「君が写楽さんかな?」
「如何にも写楽です。あなたは?」
「二年の城野瑠偉。瑠偉でいいよ」
「では瑠偉先輩。ボクにどんな御用でしょう?」
「掲示板にチラシを貼ってたよね。探偵事務所をやっているとかなんとか」
「左様です」
探偵事務所を作っただけでは事件はやって来ない。宣伝がてらボクはお手製のチラシを校内にある掲示板に貼っていた。ホームズの絵も描いた格好いいやつだ。あと猫も描いた。
「よかった。初めて見た時は見間違いかと思ったよ。歌舞伎役者が虎でも取るみたいな絵も描いてあったし」
失敬な。我が家に代々伝わる絵描き術で描いた傑作なのに。
「それでね。手が空いていればでいいんだけど、依頼を受けてほしいんだ。いいかな?」
「内容にもよりますが、とりあえずお聞きしましょう。ここではなんでしょうから事務所の方にどうぞ。なに、学校を出てすぐです」
ボクは鞄を持って立ち上がった。そして学校前にある通りを左に曲がり、小道に逸れるとそこが写楽探偵事務所だ。
ボクの住む猫鮭市は元々貿易が盛んな港町だ。海から離れた丘の上には昔に建てられた洋風の建築物が多く残り、その一つを父が借りてくれた。
百年以上前にイギリス人によって建てられた木と煉瓦の建物はまさにホームズの事務所そのものだ。と言うかそうなるようにボクが手を加えた。実際に当時の道具やらなんやらを揃えてくれたのは和藤だけど。
通りから離れているので静かだし、二階からは海が見える。お気に入りの物件だった。
ボクに続いて中に入ると瑠偉先輩は事務所をぐるりと見回し、スマホで写真を撮った。
「本当にすぐなんだね」
「偶然ですけどね。番地で選んだんです。どうしても2-2-1がよかったもんで。ここはベイカー街じゃなくて猫鮭町だし、末尾にBも付きませんが。そもそもホームズがいた時代にベイカー街の221番地は存在すらしてませんからご愛敬です」
「事務所は二階なの?」
「それも原作準拠です。階段の数も十七段にしておきました。無理に増やしたせいで歩きにくいですが」
「すごいな。色んな意味で」
瑠偉先輩は驚いていたが、呆れているようにも見えた。
二階にやってきて事務所のドアを開けるとそこでは既に和藤が紅茶の用意をしていた。執事が英国の家具に囲まれているのを見るとタイムスリップしたような気分になる。
「助手をやってくれてる者です。信頼できる人物ですからお気になさらず」
「和藤です」
和藤が礼儀正しくお辞儀をすると瑠偉先輩は少し緊張しながら会釈した。
ボクは瑠偉先輩にソファーをすすめ、自分は専用の肘掛け椅子に座った。これもアンティークだ。座ると賢くなった気になれるからお気に入りだった。
和藤が淹れた紅茶をイギリスから取り寄せたビンテージのカップに注ぐと膝丈くらいのテーブルに受け皿と共に置いた。
「どうぞ。粗茶ですが」
瑠偉先輩はまた会釈して、カップを手に取り紅茶を飲んだ。ボクも同じ物を飲み、そして同時に一息ついた。学校終わりのこの一杯は格別だ。
「おいしい……」
「でしょう? 和藤の淹れる紅茶はいつも素晴らしいんです。多分服とか部屋の雰囲気のおかげですけど」
和藤は「ご明察です。この世にある高級品のほとんどが演出ですから」と微笑んだ。
身も蓋もない話だが、和藤が言うと説得力があった。この紅茶だって近所のスーパーの特売品だし。
喉を潤すとボクは本題に入った。
「では話を聞かせてください」
「あ、そっか。お茶しに来たんじゃなかった。えっと、その、今からあたしが話すことは実は大したことないかもしれないんだけど」
雰囲気におされたのか瑠偉先輩は申し訳なさそうにした。
「お気になさらず」
「それとお金とかも払えないんだけど……」
「問題ありません。これはボクがしたくてやっていることですから。それに名士というのはその財で困った人々を救うことに存在価値があるものです」
「殊勝だね」
「それはもう。だからかわいい後輩とお茶をしながらお話するくらいに思ってください」
瑠偉先輩はクスリと笑った。顔から緊張が消える。
「では、お言葉に甘えて。まずはあたしのことから話した方がいいかな?」
「そうですね。既に分かっていることはあなたに趣味があり、そのために遠くまで出かけること。趣味にお金を注ぎ込むあまり、金欠になっているということくらいですから」
ボクがそう言うと瑠偉先輩は目を丸くした。
「一体ぜんたいどんなところからそんなことが分かったの? たしかにあたしはアイドルのライブに行くのが趣味で色んなところに遠征してるけど」
「先ほど事務所を撮っていたスマホです。その壁紙にフリフリの服を着た可愛らしい女の子が映っていたのがチラリと見えたんです。壁紙はその人の趣味が表れますから」
「遠くまで出かけているというのは?」
「鞄に付けているキーホルダーです。先月に発売されたご当地ねこにゃがついていますからね。どうやら横浜バージョンみたいだ。それがあると言うことは一ヶ月以内に横浜に行った証拠でしょう」
「うん。夜行バスのターミナルにあったから買ったんだ。じゃあ金欠だってのは?」
「それは簡単です。スマホの画面は割れたままだし、報酬のことも気にしている。だけど趣味のために動いているのだからお金がないわけじゃない。つまり趣味にお金を注ぎ込むがあまり、他に使えていないということです」
ボクの説明を聞くと瑠偉先輩はあははと笑った。
「なあんだ。はじめはなんでそんなことが分かったのか不思議だったけど、聞いてみると単純なことだったね」
「……まあ、『知らぬことはなんでも大きく見える』ですから」
ボクが引用して肩をすくめると和藤も小さく笑った。
ホームズもずば抜けた観察眼を持っていたけど、それを説明するたびに大したことがないと笑われたものだ。
でも本当に大事なのは種明かしの内容じゃない。
どんな時でも細かなところまで観察する。その行為にこそ価値があるんだ。
ボクは肘掛け椅子に座ったまま足を組み、ちらりと和藤を見た。
和藤は静かな瞳で瑠偉先輩を眺めている。それは客人の求めに対応するためでもあるんだろうが、ボクには別のなにかを探っているようにも思えた。
しかしそれがなんなのか今のボクにはまだ分からない。ボクも見過ごしたことがないか確認するが、今言った以上の情報は得られなかった。
「ではお聞かせください」
「うん。あたしがアイドル好きだって話はしたよね? 『猫の背中45度』って言う九人組のアイドルが好きで、その中でもリーダーのあゆにゃんを推してるんだ」
「ああ。それならテレビかなにかで見たことがあります。あのネコ耳アイドルですね」
「そうそう。でね。高校生になってからは本格的に推し活を始めたせいもあって、お小遣いじゃ足りなくなったんだ。CDやグッズ、何よりライブにお金がかかるからね。だから本屋でバイトしてたんだ。でもそこが出版不況で潰れちゃって」
「それは残念でしたね。普段放課後はアルバイトだけですか?」
「元々はハンドボール部だったけど推し活したくてバイト始めたら両立できなくて辞めちゃった。今も先輩達に誘われてはいるんだけどね。だから今はバイトだけだよ」
「なるほど」
「でね。バイト代がないと推し活ができないし、推し活ができないと命に関わるでしょ? だからとっても困ってたんだ」
「はあ……。そういうものですか」
「そういうものなんだよ。でもそんな時に偶然知り合った上級生からバイトを教えてもらったんだ。見てくれる?」
そう言うと瑠偉先輩は持っていた鞄の中から一枚のチラシを取りだした。それを受け取って読むとそこには驚くべきことが書いてあった。