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河伯の認識

「分かった。私が勉強を教えよう」


 私も明蓮に依頼しているうちの一柱だ。彼女の学力低下の一因となっているのなら、責任をもって学力向上の手伝いをしなくては。


「えっ、いいよ別に。だいたいアンタ学校の勉強なんて分かるの?」


「私を何だと思っているんだ。学校の勉強など私にとっては児戯じぎに等しい」


 学校の試験というのは要するに知識を試される場だ。出題は定められた範囲からと決まっている。人間社会の暗黙の了解については分からなくても、学問の知識で分からないことなどない。


「いいから見せてみろ。どこが分からないんだ?」


 明蓮の隣に座り、教科書とノートをのぞき込む。ふむ、見たところ三角関数が苦手のようだな。この数百年で人類の科学技術は飛躍的に進歩したが、学生がつまずくポイントは変わらないらしい。


「三角関数は公式の暗記を求められる問題ばかりだが、公式を覚えるにもただ文字の並びを記憶するだけではなかなか頭に残らないものだ。sin(サイン)・cos(コサイン)がそれぞれどういう意味なのかを理解するところから始めた方が良い」


 私は明蓮の手からペンを取り、彼女が開いているノートに図形を書き込んでいく。物事は図解した方が分かりやすいものだ。


「ちょ、ちょっと……ちかいちかい!」


 慌てたように言う明蓮だが、何が近いのだろうか。ノートには十分な余白があるのだが。


「この角を基準にしてsinはこの辺とこの辺の長さの比率、cosはこの辺とこの辺の長さの比率だ。三角形の内角の和は180度なので、直角三角形の鋭角が……」


「まってまって、分かった! 分かったからちょっと離れて!」


 明蓮が私の頭を両手で押して身体を離す。興奮しているのか頬が紅潮している。ああ、近いというのは身体の距離のことか。彼女は私の真の姿を知っているから、近くにいると圧迫感があるのかもしれないな。マレビトが怖いと言っていたし、これは配慮が足りなかった。


「分かった、ではノートをこちらに置いて書こう」


「……本当にマイペースね、アンタ」


 明蓮は呆れたように半目で私を見ながら息をつく。確かに私は少し相手を気遣う態度が足りていないようだ。こんなことで彼女の笑顔を見る日が来るのだろうか?




「ずいぶんと仲良しさんなのねーっ!」


 しばらく明蓮に勉強を教え、休憩に入ったところでオリンピックが話しかけてきた。先ほどから本棚の後ろに隠れて私達の様子を覗いていたのは勉強の邪魔をしないようにとの気遣いだろう。やはり私はまずこの娘から人間の情緒というものを学ぶべきか。


「そんなんじゃないわよ、ちょっとコイツが変わり者で距離感を知らないだけ」


「でも副会長嬉しそうだったよ?」


「ちっ、ちが……」


「ねえ河伯君、副会長のことどう思ってるの?」


 明蓮と話していたと思ったらすぐに私に話を振ってきた。彼女の言葉に反論しようとしていた明蓮はオリンピックの急な話題の転換について行けずに顔を赤くして口をパクパクさせている。身体を近づけるのはそんなに怒ることなのか。よほどマレビトに恐怖を感じているのだろう。マレビトを恐れる彼女がマレビトの求める能力を持っていて、マレビトに憧れるオリンピックには能力がないというのも皮肉なものだ。


「私は明蓮に興味があるのだ。彼女の笑顔を見てみたいと思っている」


「へえ~そうなんだ~」


 何故かオリンピックはニヤニヤしながら私達を交互に見る。


「だってさ、副会長」


「し、知らないわよ! 私はもう帰るから!」


 話しかけられた明蓮はそう言って勉強道具を乱暴に鞄へしまうと、席を立って図書室から出ていってしまった。


「あらら、ちょっとからかいすぎたかな?」


 からかっていたのか。人間のコミュニケーションはよく分からないな。


「よく分からないが、あまり人をからかってはいけないぞ」


「えへへ、ごめんねー邪魔しちゃって。二人で仲良くしてるからさー」


 二人で仲良く……か。だが明蓮は怒って出ていってしまった。彼女が安心できる距離感を学ぶ必要があるな。


「ところで、伝承は見つかったのか?」


 オリンピックは伝承巡りの資料を探しに来ていたはずだ。ずっと本棚の影から私達の様子を覗いていて、あまり探しているようには見えなかったのだが。


「大丈夫、目星はついてるから!」


 自信ありげな態度だ。本当にマレビトが見つかるのだろうか?

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