「失礼します……」
再び彼女の病室の扉を開けるのには、多少の勇気がいった。
何せ先程とは違い、今度はこの部屋に僕と彼女以外に誰もいない。完全に二人きりという状況だからだ。
扉の向こうで、相変わらず彼女は一人ベッドに起き上がって座っていた。窓から差し込む夕日が、高校時代、二人で歩いた帰り道を思い出させる。もう何度も、同じような経験をしたようにも思う。
そして、夕日に照らされた美しい彼女が、この夏に再会した「彼女の生霊」の姿と全然変わらなくて、「久しぶり」という感覚はあまり湧かなかった。
それでも、彼女が確かな実体を持って今ここに存在していることが、僕に言いようもないほどの喜びを運んできてくれた。
「友一」
部屋に入ってきた僕に気づいた彼女が、僕の名を呼んだ。
その柔らかな声色が、一週間前まで耳にしていた彼女の声と何ら変わりなくて、僕は思わず何度も瞬きして彼女を見た。
ああ、本当に。
本当に彼女がそこにいる。
「夏音」
僕は一歩、また一歩と、彼女の元に歩み寄った。
今僕と同じ空間にいて、同じ空気を吸っている彼女は、きっとこの前みたいに突然消えたりしない。
僕はベッドの横に置いてあった椅子に座り、彼女の髪をそっと撫でた。
照れ隠しのためか、彼女は頬をほんのり赤く染め、下向き加減に口を開いた。
「友一、私……夢を見てた気がする」
夢、という言葉に、僕ははっとする。
もしかして彼女は、この一か月の「生霊」の記憶を持っているのだろうか……?
「へぇ、どんな夢?」
「大学2年生の私が、友一と再会して。もう一度あなたの大切な人になる夢」
「あ……」
ビンゴだ。
驚いたことに、彼女は僕と過ごしたこの夏の記憶をしっかりと引き継いでいた。
それがどれほど、僕の心を震わせただろう。
気が付くと僕は、桃子さんと同じように、羞恥心など忘れて涙を流していた。20歳の男が、こんなふうに泣いている姿なんて、みっともないに決まっている。
そう思ったが、彼女は鼻をすすっている僕を、何も言わずに静かに見守ってくれた。
それからしばらく、二人の間には僕のすすり泣く声だけが静かな病室に響いていた。そして、ようやく涙が収まって顔を上げた時、今度は彼女の方が今にも泣き出しそうな表情をグッと我慢している様子で、ゆっくりと口を開いた。
「夢の中で、私はいっぱい幸せだった。幸せすぎて苦しかった。でも、今までの人生でいちばん、忘れたくない夢だったよ」
たまらなくなって、僕は彼女を強く抱きしめた。
彼女の母親がそうしたように、今度は僕が、母親とは違う愛情を、彼女に捧げる。
「夏音……」
「……なに」
耳元で、聞き慣れた彼女の声が響いて、僕は彼女がちゃんとこの世に生きていることの現実を実感する。
「あのさ」
「うん」
きっともう二度と、この手を離さない。
「顔、鼻水でぐちゃぐちゃだよ」
「な……! 友一に言われたくないわっ」
彼女の肌の温もりが、僕の身体に熱く溶けて、ずっと固まっていた心がほどけていく。
「ははっ、ごめんごめん。あのさ、夏音」
「何よ」
5年後も、10年後も、こんなふうにふざけ合っていられるといい。
「おかえり」
君の声を、ずっと側で聞きながら。
【最終章 僕はいま、君の声を探しにいく 終】