夏音の母親である桃子さんに連れられて、僕はとある大学附属病院に来ていた。かなり大きな病院で、ズラリと並んだ受付前の椅子には、患者さんとお見舞いに来た人たちが、肩を寄せ合うようにして座っている。
「天羽桃子、天羽夏音の母親です」
彼女が受付でそう言うと、受付の看護婦さんが慌てた様子で「少々お待ちください」と言って、席を立った。どうやらお医者さんを呼びに行ったらしい。
それから数分して、すぐに男性の医者が現れ、「こちらです」と足早に僕たち二人を病棟まで連れて行ってくれた。
「ここです」
前を行く医者がとある病室の前で立ち止まり、「まだ記憶が錯乱している状態ですので、あまり混乱を招くような会話は避けていただけるよう、お願いします」と告げた。
僕はそこでようやく、病室の扉に『天羽夏音』という彼女の名前を見つけ、思わず息を呑んだ。
夏音の実家からお母さんの車に乗って病院まで来る途中で、僕は彼女の口から、驚きの事実を耳にしていた。
***
「夏音が目を覚ましたって、どういうことですか……?」
なぜ、死んだはずの彼女に対し、「目を覚ました」なんて生き人の行為を当てはめられるのか、僕には全く理解できなかった。
「あなた、名前は何て言うんだっけ」
「水瀬と言います。水瀬友一です」
「そう。水瀬君、あなたは7月末に起こった夜行バスの事故のことを知っているわよね」
「はい……それで夏音——お嬢さんが、亡くなったと聞いて、東京まで帰って来たんです」
調子の良いことに、道路ではずっと青信号が続いていて、びゅんびゅん車を走らせながら、桃子さんが自分の娘の不幸について語っている。
「水瀬君は勘違いしているみたいね」
「え?」
「その事故ではね、たった一人……意識不明の重体になった女の子がいるのよ」
ここでようやく赤信号に引っ掛かり、桃子さんがハンドルから手を放して横目でチラリと僕を見た。
僕は、彼女の言うことを瞬時には理解できず、あの事故のニュースを思い出そうと必死に頭の中の記憶を手繰り寄せた。
——続いてのニュースです。
今日午前2時28分、東京発大阪行きの夜行バスが巻き込まれた落石事故によって、運転手、乗客16名が死亡しました。軽傷者も8名出ており、当局では死亡した乗客の身元の確認を急いでいます。また、乗客のうち意識不明の重体である——。
——この事故では多数の死傷者が発生しております。意識不明の重体である女性の身元は、現在公表できないとのことです。
「まさか……」
僕は、自分の両手に汗がジワリと滲むのを感じた。
「ニュースを思い出したようね。あの日の事故で、乗客16人が亡くなった。他にも軽症者が何人かいたみたいね……。でも夏音は、その中で一人だけ、死とも生とも言い難い状況のまま、眠ってしまったの」
僕は、夏音の身に起きた真実に、素直に喜んで良いのか分からなかったが、少なくとも「彼女が死んでいる」と思い込み、塞ぎ込んでいた一週間のことを思えば、全身が舞い上がりそうなほど、歓喜していた。
夏音が、生きている。
生きている彼女にこれから会うことができる。
その事実だけで、僕はもう一度、前に進める気がした。
「私は夏音が眠ってからずっと後悔してばかりで……早く起きてほしいってずっと思っていたの。……今からようやく会えるのね」
桃子さんが、目尻にうっすらと涙を浮かべながら、夏音への想いをポロリと零した。その姿を見て、高校時代、母親との関係で散々悩んでいた夏音に、「もう大丈夫だよ」と声をかけてあげたくなった。
大丈夫。
夏音はもう、家族と上手くやっていけるんだ。
昔の彼女を知っていたからこそ、僕は、夏音と桃子さんの関係が修復されるのが嬉しくてたまらなかった。
しかしそれと同時に、僕の中で一つの疑問が生まれた。
現実世界で目を覚ました夏音は、僕のことを覚えているのだろうか、と。