目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
3、目覚め

 夏音の母親である桃子さんに連れられて、僕はとある大学附属病院に来ていた。かなり大きな病院で、ズラリと並んだ受付前の椅子には、患者さんとお見舞いに来た人たちが、肩を寄せ合うようにして座っている。


「天羽桃子、天羽夏音の母親です」


 彼女が受付でそう言うと、受付の看護婦さんが慌てた様子で「少々お待ちください」と言って、席を立った。どうやらお医者さんを呼びに行ったらしい。

 それから数分して、すぐに男性の医者が現れ、「こちらです」と足早に僕たち二人を病棟まで連れて行ってくれた。


「ここです」


 前を行く医者がとある病室の前で立ち止まり、「まだ記憶が錯乱している状態ですので、あまり混乱を招くような会話は避けていただけるよう、お願いします」と告げた。


 僕はそこでようやく、病室の扉に『天羽夏音』という彼女の名前を見つけ、思わず息を呑んだ。

 夏音の実家からお母さんの車に乗って病院まで来る途中で、僕は彼女の口から、驚きの事実を耳にしていた。



***



「夏音が目を覚ましたって、どういうことですか……?」


 なぜ、死んだはずの彼女に対し、「目を覚ました」なんて生き人の行為を当てはめられるのか、僕には全く理解できなかった。


「あなた、名前は何て言うんだっけ」


「水瀬と言います。水瀬友一です」


「そう。水瀬君、あなたは7月末に起こった夜行バスの事故のことを知っているわよね」


「はい……それで夏音——お嬢さんが、亡くなったと聞いて、東京まで帰って来たんです」


 調子の良いことに、道路ではずっと青信号が続いていて、びゅんびゅん車を走らせながら、桃子さんが自分の娘の不幸について語っている。


「水瀬君は勘違いしているみたいね」


「え?」


「その事故ではね、たった一人……意識不明の重体になった女の子がいるのよ」


 ここでようやく赤信号に引っ掛かり、桃子さんがハンドルから手を放して横目でチラリと僕を見た。


 僕は、彼女の言うことを瞬時には理解できず、あの事故のニュースを思い出そうと必死に頭の中の記憶を手繰り寄せた。


——続いてのニュースです。

今日午前2時28分、東京発大阪行きの夜行バスが巻き込まれた落石事故によって、運転手、乗客16名が死亡しました。軽傷者も8名出ており、当局では死亡した乗客の身元の確認を急いでいます。また、乗客のうち意識不明の重体である——。


——この事故では多数の死傷者が発生しております。意識不明の重体である女性の身元は、現在公表できないとのことです。


「まさか……」


 僕は、自分の両手に汗がジワリと滲むのを感じた。


「ニュースを思い出したようね。あの日の事故で、乗客16人が亡くなった。他にも軽症者が何人かいたみたいね……。でも夏音は、その中で一人だけ、死とも生とも言い難い状況のまま、眠ってしまったの」


 僕は、夏音の身に起きた真実に、素直に喜んで良いのか分からなかったが、少なくとも「彼女が死んでいる」と思い込み、塞ぎ込んでいた一週間のことを思えば、全身が舞い上がりそうなほど、歓喜していた。


 夏音が、生きている。

 生きている彼女にこれから会うことができる。


 その事実だけで、僕はもう一度、前に進める気がした。


「私は夏音が眠ってからずっと後悔してばかりで……早く起きてほしいってずっと思っていたの。……今からようやく会えるのね」


 桃子さんが、目尻にうっすらと涙を浮かべながら、夏音への想いをポロリと零した。その姿を見て、高校時代、母親との関係で散々悩んでいた夏音に、「もう大丈夫だよ」と声をかけてあげたくなった。


 大丈夫。

 夏音はもう、家族と上手くやっていけるんだ。


 昔の彼女を知っていたからこそ、僕は、夏音と桃子さんの関係が修復されるのが嬉しくてたまらなかった。


 しかしそれと同時に、僕の中で一つの疑問が生まれた。


 現実世界で目を覚ました夏音は、僕のことを覚えているのだろうか、と。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?