東京に帰ろう、と思い立ったのは、僕の前から彼女がいなくなってから、1週間が経過した9月の初めだった。大学の後期の授業は9月下旬から始まる。だからもう少しだけ猶予があった。
1週間前、腕の中の彼女の存在が感じられなくなった後、放心状態で家に帰った。 家に戻るまでにびしょ濡れだった体が少しだけ乾いていたが、逆に雨に打たれていた方がましだと思うほど、気分が悪かった。
家に帰り着いてからは食欲が湧かず、その日はシャワーを浴びるだけで精一杯だった。浴室から出てきて、昨日までは彼女の温もりがあった部屋が、まるで全く馴染みのない場所のように感じられて虚しくなった。
翌朝目が覚めると、体中が熱を帯びていて、体温を測ると38度5分を示した。その日は体力も気力もなく、ただただ布団の中で寝て過ごした。
2日後に熱は下がったが、布団から起き上がるのすら億劫で、理由もなくバイトを休んだ。電話をかけると店長に理由を問い詰められるかと思ったが、沢田さんが気を利かせたのだろうか、「分かりました。早く元気になってくださいね」と優しい言葉をかけてもらい、申し訳なさと不甲斐なさでいっぱいになる。
そうやって何もしないまま1週間が経とうとしている頃、僕の家のインターホンが鳴った。
「よお」
重たい腰を上げて玄関に出ると、後藤がニカっと笑って立っていた。それから、
「水瀬君、こんばんは」
後藤の後ろから、沢田さんがひょこっと顔を覗かせていた。あの一件以来、彼女に会うのが何となく気まずくて、バイトもさぼっていたのに、彼女の方から訪ねて来るとは思っていなかった。
「今日桃ちゃんとシフト被ってたからさ、バイト終わりに水瀬の様子見に行こうってことになって。はい、これお土産」
後藤が、手に持っていたビニール袋ごと、僕に手渡した。それにしても、いつの間に「桃ちゃん」なんて呼び方になったんだろう。もしかしたら二人は付き合っているのかもしれない、なんて勝手な妄想を膨らませながら、手元のビニール袋の中身を確認する。
「これ、バイト先の残りか」
袋の中の、サンドウィッチやら菓子パンやらを見て、僕はため息をついた。
「ばれたか」
「『ばれたか』って、同じバイトで働いてるんだから、当たり前だろう」
「まあまあ、そう怒らずに」
「いや……怒ってないけど」
というかむしろ、引き籠りの僕のために、わざわざ差し入れまで用意して様子を見に来てくれたのだと思うと、ちょっと泣きそうになった。
「水瀬君、ちゃんとご飯食べてる?」
沢田さんが心配そうな表情を浮かべて、僕にそう訊いた。
「まあ……ぼちぼちかな」
「その言い方だと、食べてないわね。ちゃんと食べなきゃダメよ」
沢田さんの、優しい注意が、僕の記憶の中の夏音を彷彿とさせて、一瞬心臓を掴まれたような痛みを覚えた。でも、そんなことでいちいち感傷に浸っている場合じゃないと、自分に言い聞かせて気持ちを鎮める。
「分かってる。今日はこのお土産があるから大丈夫だよ。二人ともありがとう」
「困った時は、お互い様だろう」
「うん……そうだね」
後藤は、僕が道に迷って歩けなくなりそうな時、いつも力強い助言をくれる。彼がいなければ、夏音と再会した後の喜びも痛みも味わうことができなかっただろう。だから後藤には、とても感謝している。
「あのね、水瀬君。夏音のことなんだけど……」
「心配モード」の沢田さんが、言いにくそうに口を開いて、この間の一件について話し出す。
「この前、水瀬君と、それから……“夏音”を傷つけてしまって、ごめんなさい。あたしが変なこと言ったから、水瀬君がこんな風に家から出られなくなってしまったんじゃないかって、ずっと謝りたくて……」
「……沢田さんは、何も悪くないよ」
彼女には夏音の姿が見えなったのだ。
だから、彼女が悪いなんて、僕はこれっぽっちも思っていない。
「そう……でも、やっぱりごめんね。あたしも、本当は夏音に会いたかった。もし、水瀬君にだけ見えている夏音が本当にいたのだとしたら……水瀬君が、ちょっと羨ましかったよ」
「沢田さん……」
死んだはずの夏音が僕に会いに来たこと。
この不思議な体験が、僕と沢田さんを引き寄せて、残酷な幸せを運んで来てくれたのかもしれない。
「水瀬、あのな。桃ちゃんからお前と元カノさんに何があったのか聞いた。その元カノさんが、水瀬にしか確認できない存在だったっていうのも。信じられないけどな。俺は水瀬の友達だから、信じる」
「ありがとう、後藤。彼女は……夏音は、幽霊だったんだ。ここ最近ずっとニュースで流れてた夜行バスの転落事故で、亡くなってたみたいだ。だからもう、夏音には会えない。でも、最後に……幽霊でも幻でもいいから、彼女と一緒に過ごせて、幸せだった」
夏音がいなくなって、初めて彼女との日々をじっくりと振り返った。
今までは、思い出すのも辛くて、彼女の幻と過ごした数週間の出来事を、なかったことにしてしまおうと必死だったけれど。
でも、本当は一ミリだって忘れたくなんかない。
「そうか……辛かったな。だけど、水瀬。お前はちゃんと、彼女にお別れしてくるべきだな」
後藤が、父親みたいに優しく笑って、僕にそう告げた。
「お別れ?」
「そうだ。東京に戻って、元カノさんに会いに行ってこい」
僕はここで、後藤の言わんとしていることをようやく理解する。つまり彼は、彼女を弔いに行くべきだと言っているのだ。
「そうだね……。うん、僕も最後にもう少しだけ夏音に話したいことがあるし、後藤の言う通りかもしれない」
「おう。そうしろそうしろ」
「水瀬君、あたしのことも、夏音によろしくね」
後藤が僕の背中を押して。
沢田さんが、ちょっと切ない笑みを浮かべて。
僕は二人の好意に支えられて、一度東京に帰ることを決意した。
夏音に、本当のさよならを言うために。