「私……きっと、死んでるんだわ」
彼女の美しい黒髪が、雨に濡れて彼女の頬に張り付いている。きっと僕の顔も、雨や泥で薄汚れているに違いない。
「は……いま、なんて」
僕は、沢田さんに加えて夏音まで変な冗談を言っているのではないかと混乱し、僕の聞き間違いだろうと思い直し、再び彼女に問うた。
「だから私、もうとっくに死んでるの」
「……意味が分からないよ。きみは、今ここにちゃんといるじゃないか」
僕には彼女の言っていることがちっとも理解できずに、少し声を荒げてしまう。
けれど、戸惑いを隠せない僕とは違い、彼女は不自然なぐらい落ち着いているように見えた。いや、実際は冷静さを装っているようにも感じられる。しかし、次に彼女が言葉を発した時、彼女が悲しそうに首を振って、今にも泣き出しそうな表情をしているのを僕は見た。そうだ、沢田さんの話を聞いてここまで駆けてきた彼女が、一番正体不明の不安に襲われているはずなんだ。
「友一が見ている私はきっともう、友一にしか見えない私なの……。私の幻想。この世のものではない私が、あなたにだけ見えている」
なんだって?
思考がちっとも追いついていなかった。およそ現実離れした彼女の言葉が、僕のこれまでの経験から答えを導こうとしている回路をショートさせる。
分からない。
分からないよ。
それなのに、悲しげに言葉を発する彼女を見ていると、この理解不能な状況さえ、簡単に納得させられてしまうような気がして。
僕は思わず大きく首を振って、受け入れられない現実に馬鹿みたいに歯向かおうとする。
「そんなの、信じられるわけ、ないだろ……」
口をついて出たのは、そんな陳腐な抵抗だ。
「友一、思い出してよ。この間病院に行った帰り、喫茶店に行ったよね。その時店員さんが、友一の分しかお水を持ってきてくれなかった。友一は、『凡ミス』だって言ったけれど……きっとあの店員さんには、私のことが見えてなかったのよ」
僕は、彼女の言葉に、その日のことをゆっくりと回想する。
確かにあの喫茶店で、女性の店員は、お冷を一つしか持って来なかった。僕はそれが、彼女の単純なミスだと思い込んでいた。でも、よくよく考えると、夏音の分の水を持ってきてくれた店員は、その水をテーブルの真ん中に置いていた。その時僕は「おかしいな」と思った。だって普通なら、夏音の前に水を置くだろうから。
だけどもし、彼女に夏音の姿が見えていなかったとしたら……?
水を一つしか持って来なかったのも、後で持って来た水を怪訝そうにテーブルの真ん中に置いたのも、納得がいく。
「で、でも、それだけで判断できないだろ……」
彼女が死んでいるという事実を受け入れたくない僕は、必死にその現実離れした仮説を覆す方法を探した。
けれどやはり、夏音は依然として悲しげに眉を潜めて続けた。
「サラリーマン」
「え?」
「あの後電車に乗った時……私、サラリーマンの男にぶつかったでしょう。でも、その男は私に見向きもしなくて、まして謝ることもなかった。でも、その人は全然悪くないの。喫茶店の一件で自分の存在を疑っていた私は……彼の目に、私が映っていないのだと確信したから」
ナンダよソレ。
ソンナコトがアルハズナイ。
彼女ガこの世のモノでないなんて、そんなのオカシイ。
夏の雨が、僕の思考を狂わせているのか。
それとも、彼女の存在を歪めているのか。
今の僕に、目の前の現実とも虚構ともつかないこの状況を受け入れるのは、あまりに酷な話だった。
それでも、彼女の透き通った声が、やはりこの世に存在しないような、今にも聞こえなくなるかもしれないというような焦りをもたらして、僕の不安な気持ちを助長した。
「い、医者は……医者はどうなんだ? どうして夏音を診察することができた……?」
僕の必死な訴えはもう、夏音に真実を否定してほしいという切実な願いとなっていた。夏音は苦しげに首を横に振る。
「分からないわ。私も、医者のことだけは不思議だった。もしかしたらその頃はまだ私の姿が他の人に見えていて、その後からだんだんと見えなくなったのか。そんなこと、本当に起こるのか分からないけれど、もう私にも、何が本当で何が嘘なのか、分からないの」