「夏音! 待って」
僕は、呆けたような顔をしている沢田さんを一瞥し、それから「ごめんっ」とだけ言って、彼女の後を追いかける。
走り出して、僕は激しく後悔した。
ああ、なんで今日、こんなに裾の長いズボンを履いてきてしまったのだろう。走りにくいことこの上ない。
傘を差しながら走っていると、とてもじゃないが前を行く彼女に全然追いつかない。途中、道端に傘を捨て、身一つで彼女を追いかける。
依然として激しさを増す雨が、体中に当たって冷たい。真夏だというのに、雨の冷たさに体力を吸い取られる。
一歩足を踏み出す度に、アスファルトの地面が、僕の足に重たい衝撃をのせた。
けれど、白いワンピース姿で数十メートル先を走っている彼女は、僕なんかよりもずっと苦しい思いをしているに違いなかった。
二年前の秋、僕が彼女と三宅君を目撃して、その後ずっと彼女を無視してしまった時。
彼女は、僕を追いかけてきた。
「友一、待って」と僕を引き留めようとする彼女の気持ちを、あの時僕は一切顧みなかった。
それが今、反対に僕が彼女を必死に追いかけている。走りながら「夏音」と声を張り上げて叫ぶが、彼女には多分聞こえていない。いや、もしかしたら聞こえてはいるのかもしれないが、全身びしょ濡れになりながら走り続ける彼女は、一度も後ろを振り返らなかった。
「……っ」
きっと二年前の彼女も、こんな気持ちだったのだ。
どれだけ必死になって話したい、ちょっとだけでいいから止まってほしいと思っても、その気持ちを蔑ろにされてしまう。
少なくとも当時の僕は、そんな最低野郎だったに違いない。
だから今、どんなに自分が無視されても仕方ないと思う。
でも……僕は、彼女が何に苦しんでいるのか、引き留めてちゃんと聞き出さなくちゃいけない。たとえ嫌われようが、無視されようが、これ以上彼女を苦しめるものを、見過ごすわけにはいかないのだ。
だから、どうか、追いついてほしい。
そんな僕の願いが通じたのか、足が痺れてきて、そろそろ限界かもしれないと本能が告げてきたとき。僕の前を走っていた彼女がのペースが急速に落ちて、ついに全身で息をしながら、コンクリートの壁に手をついて立ち止まった。
僕は、重たい足を引きずりながら、止まっている彼女のもとに必死に駆け寄った。
「夏音……っ」
僕も彼女も、全身ずぶ濡れで、しばらく呼吸を整えるのに精一杯だった。道行く人々が怪訝そうな目で僕たちを見ながら、声をかけることもなく通り過ぎてゆく。
「夏音、どうしたんだよ。急に走り出すから、何が起こったのか、全然分からないんだ」
「……」
彼女は、前を向いたまま僕の方を見ようとせず、まだきちんと息ができずに苦しそうにしていた。
「沢田さんが言ったこと、気にしないでいいと思うよ。きっとさ、僕たちを驚かせようとしてたんだ。最近冗談が多いからさ。今度言っておくよ、質の悪い冗談はよせって。沢田さん、おかしいよなあ。言っていい冗談と悪い冗談があるの、分かってないわけじゃないはずなのにね」
大丈夫。大丈夫だよ。
沢田さんの言葉が、彼女をここまで走らせて苦しめているのなら、それはきっと間違いなんだ。だから、きみはもうこれ以上辛くならなくていい――。
胸の中で、彼女を宥めながら、弱々しくてもいい、彼女がこっちを向いて「うん」と頷いてくれるのを祈った。
でも。
「桃は……おかしくなんかないわ」
不意に、ずっと口を開かなかった彼女が、ポツリとそう漏らした。
降り止まない雨が、僕らを包む空気を、より一層重たく暗いものに変えてゆく。
「おかしくないって、どういうこと?」
僕は、夏音の言っていることが分からない。
沢田さんの言葉は、僕からしてみれば、虚言でしかなかったからだ。だって、今僕の目の前に、彼女はちゃんといる。だから、「夏音がいない」なんて、沢田さんが考えついたドッキリ以外の何物でもないはずなんだ。
そんな僕の脳内の声が聞こえたのか、夏音がようやくゆっくりとこちらを振り返り、ずぶ濡れの顔を、悲しそうに歪めて、恐ろしいほど澄んだ声でこう告げた。
「私……、きっと、死んでるんだわ」