「え?」
もし目の前に鏡があったら、僕は今、とてつもなく阿呆みたいな顔をしているに違いない。それぐらい、沢田さんの言葉は僕にとって急に理解できるようなものではなかった。
「沢田さん、もう一度、言ってくれない……?」
もしかしたら聞き間違いかもしれないと思った僕は、今度こそきちんと彼女の台詞を拾うために、かつてないほど全身全霊で耳をそばだてた。
「だから―、夏音は、本当にそこにいるの? あたし、今日一度も夏音の姿を見てないよ。だって水瀬君しかいないじゃない。夏音の声なんて、ちっとも聞こえないよっ」
雨の音が、忽然と消えた。
いや、実際は依然として雨は降り続いている。色とりどりの傘を差して歩く人々や、雨粒が地面を濡らし、泥が跳ねる様子が、僕の目にはしっかりと映っている。
それなのに、沢田さんの不可解な言動が、存在するはずの雨音をかき消すほどの衝撃を、僕に与えた。
聞こえない、だって?
夏音の声が、聞こえない。
キコエナイ……。
頭が上手く回らない。僕は、何か言葉を発するべきだと思いながらも、考えるより先に、体が勝手に僕の後ろにいるはずの夏音の方を振り返っていた。
「…っ……」
夏音は確かに、そこにいた。
その事実に、内心安堵する。ほら、彼女はちゃんといるじゃないか。沢田さんがおかしなことを言っているに違いない。
「沢田さん、何言ってるの? 夏音はちゃんと、僕の後ろにいるじゃん。驚かせないでよ」
僕は笑いながら沢田さんに向かって、変な冗談はやめるように言った。僕は、彼女がいつもの調子で「ごめんごめん」と謝ってくれることを期待していた。
でも、彼女は表情を硬くしたまま決して笑うことはなく、それどころか僕を奇異な目で見ていた。
……。
僕と沢田さんと、それから僕の後ろにいるはずの夏音の三人の間に、沈黙が流れる。それから、先程までかき消されていた雨音が、急に耳元で悲鳴を上げ始めた。
どうして。どうして沢田さんは、夏音がいないだなんておかしなことを言うんだろう。だって、今朝からずっと、夏音はここにいる。僕の隣に、ずっといるじゃないか。
不意に、ザ、ザ、と僕の後ろからぬかるんだ地面を鳴らす足音が聞こえて、咄嗟に振り返る。
見ると、沢田さんと僕が問答している間ずっと押し黙っていた夏音が、顔を引きつらせて後ずさりしていた。
そして、振り返った僕と目が合った瞬間、彼女は手に持っていた傘を放り出して、その場から逃れるように、元来た道を走り出した。