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07 安藤恭太 5



 本格的な冬の寒波が身体の芯から抉るように刃となって襲いくる。なんとか目的地まで辿り着くと、緊張感で一気に身体が萎縮した。

 僕は、肩で息をしながら恋人の揺れる瞳を見つめて、呼吸を整える。


「別れて、欲しいんや」


 あのあと、善は急げだ恭太くん! と首根っこを掴まれてブンブンと身体を揺すられた僕は彼の勢いに負けて、その日の夜に自転車を漕いで真奈に会いに行った。


「今、なんて……?」


 突然彼女の住むマンション前までやって来た僕に、真奈は心配そうな表情を浮かべていた。そりゃそうだ。連絡もなしに突然恋人がやって来たとなれば、本来は嬉しいはずなのに、その恋人の口からまさかの別れ話が飛び出して来たのだ。もっとも、連絡できなかったのはスマホを取り上げられているからだが。


 そして、彼女の懸念通り僕は彼女が一番聞きたくないであろう台詞を放ったのだ。

 僕と彼女の間に冬の冷たすぎる夜風が吹き抜ける。コートを一枚羽織っただけの僕は、はああっくしゅんっ! と盛大なくしゃみをした。普段なら真奈がポケットからティッシュを差し出してくれるのだが、この時ばかりは彼女も硬直していて眉一つ動かさない。


「僕さ、真奈と付き合えて本当に幸せやったんや。本当ならずっと幸せなまま付き合っていたかったんやけど」


 言わなくちゃいけない。彼女が僕のことを本気で好きでいてくれた分だけ、僕も本気で彼女を振るんだ。


「最近、ちょっと気持ちが重なってきて……僕は真奈の気持ちの大きさに応えられへんっ。このままじゃ真奈のこと傷つけてまう。やから、別れて欲しい」


 彼女は、僕の必死の別れの言葉を無言で聞いていた。泣くことも喚くこともせず。まるでそれは何が起こっているのか分からないという戸惑いのようでもあったし、この時が来るのを予感していたからこその落ち着きとも感じられた。


「嫌……」


 彼女がふるふると身体を震わせる。殴られるか、泣きつかれるか——どちらに転んでもおかしくない。だって僕は、僕を大好きでいてくれる彼女を振って、傷つけたのだから。僕は息をのみ、覚悟して目を瞑った。


「嫌だって、言いたい……でも、もう決意は固いんだよね」


 予想外の言葉に、僕はゆっくりと目を開ける。

 目の前には、潤んだ瞳から涙がこぼれないように必死に我慢している真奈がいた。


 彼女のことだから、もっと泣きついてくるのかと思っていた。

 別れたくないと僕を引き止めてくると覚悟していた。

 しかし、僕の言葉に小さく頷いた彼女は、諦めたように眉を下げて笑う。だから僕も、ゆっくりと頷いた。


「分かった。やっぱり重かったんだ」


「自覚あったん?」


「うん、ちょっとは。実はね、前の彼氏から振られたのも浮気って言ったけど……私が重かったのが原因なの。私、ちっとも成長してなかったんだね」


「そんなことは……」


 意外だった。彼女が自分の行いを客観的に見つめていたということ。女の子と付き合うのが初めてだった僕には、同じ理由で二回も恋人に振られた彼女の気持ちを完全に理解することはできない。でも、僕の意思を受け入れてくれた彼女のことを思うと、胸がツンとした。ああ、僕は真奈のことが本気で好きやったんやな。だからこそ、辛さを必死に噛み殺している彼女に対し、申し訳ない気持ちでいっぱいになってるんや……。


「ごめんね、恭太くん」


「謝らんでええよ。むしろこっちこそごめん」


「ううん。私、次は頑張るから」


「うん」


「もしまた会ったらさ、成長した私を見てよ」


「分かった。期待してるで」


 泣き笑いを浮かべる真奈に、僕もつられて泣きそうになった。でも僕が泣くのは違う。僕が泣いたら、この後真奈は一人で泣かれへんくなる。


「あ、そうだ。スマホ返すからちょっと待ってて」


「ああ」


 家の中に戻っていく真奈。僕は遠ざかる真奈の背中をぼうっと見つめる。

 しばらくして戻って来た彼女は僕の手にスマホを握らせた。


「はい、クリスマスプレゼント」


「何やねんそれ」


「ふふっ」


 最後まで可愛らしい彼女でいることを怠らなかった真奈は、「遅いから早く帰った方がいいよ」と僕の背中を押した。


「真奈」


「ん?」


「ありがとうな」


 最後にそれだけ伝えたかった。

 真奈と恋人になれたことで、少なくとも僕の灰色の大学生活は色を取り戻した。たった数ヶ月の付き合いだったけれど、真奈との紡いだ思い出は僕の人生にとって必要不可欠な宝だ。

 真奈は淡く微笑んで頷いた。きっと今傷ついているはずなのに最後まで気丈に振る舞うなんて、やっぱり君はすごいよ。

 彼女に背を向けて僕は自転車に跨る。

 背後からくちゅん、という可愛らしいくしゃみの音が聞こえたけれど、僕は振り返らない。


 12月の京都の夜は、独り自転車で駆ける僕にはあまりに暴力的な寒さを運んでくる。顔面に凍てつくような寒さの風が突き刺すたびに、ヒリヒリとした痛みを覚える。手袋をしているはずの両手の感覚がなくなっていく。それでも必死に漕ぎ続ける。いち早く彼女から遠ざかりたい一心で。だってそうしなければ、彼女が早く一人で泣けないと思ったから。


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