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第11話 鳳仙花の花言葉Ⅰ

 物心ついて間もなくして母が目の前で自殺した。そのために小学校ではいじめに遭った。けれどもかけがえのない親友と出会い、少し遠くの中学に入った。そこであの子と出会った。あの子は単に同じ部活のクラスメイトで、他の人よりよく話すというだけの仲だった。けれども——

 けれども、あの子が自殺したときが一番ショックだった。


 僕、柊友人は高校一年生。とある私立高校に入学したばかりである。今、高校生の本分といえば本分の部活動を決めている最中だ。

「文芸部の見学か。珍しいね」

 図書室にいる司書の三島先生と話していた。三島先生はこの学校の文芸部の顧問だ。カウンセラーの資格も持っているということで、生徒の相談にも真摯に対応してくれると評判だ。

「この学校には他にも色々部活はあるんだよ? 野球部とか、サッカー部とか——あ、そういえば君は卓球部だったんだっけ、柊くん」

 卓球部。その単語に僕の思考は凍りつく。

 僕は中学時代、卓球部に所属していた。三年生のときには全国大会に行ったこともある。

「ちゃんと卓球部もあるよ。さして強いというわけでもないけれど……ああ、そうそう、女子の方の部長をやっている小山さんっていう人はね、かなりの実力者で、リーダーシップもあって、一所懸命な人で、人当たりもいいし、男女関係なく」

「いいえ」

 三島先生の言葉を遮るように口にした。

「僕はもう、卓球はしませんから……」

 そう、僕はもう、卓球をやめた。あの子が死んでからは。

 僕の目を見て何か悟ったのか、三島さんはそう、とだけ呟いた。

「どうぞ、見学していって。ただ、おすすめはしないよ、この部は」

 苦々しげな面持ちで三島先生は言った。

 図書室を部室とする文芸部。僕もこの学校の文芸部の噂は聞いていた。わけあり生徒たちが集う部活で、現在は文芸部史上最高クラスで根暗な生徒がいるらしい。そのため転部や退部が相次いで、部員数は今や二人。——そんな噂を聞きながらも僕が入ろうと思ったのは、その部員数の少なさからだ。あの子のことを忘れるために、卓球から離れた静かな場所にいたい。少なくとも、運動部に入ったら、体育館で卓球部の活動を目にすることはあるだろう。だから、体育館から離れた図書室で活動をする文芸部に入ろう。そう思っていた。

「こんにちは」

 図書室の片隅でその部活は行われていた。男子生徒と女子生徒が一人ずつ、向かい合って何やら話している。胸元の校章バッジの色を見るに、二人共、三年生のようだ。

「……ということでだな、私は……」

「へえ、なるほどね。それで……あ」

 男子生徒の方が僕に気づき、立ち上がった。

「こんにちは。もしかして、部活見学の子?」

「はい」

「俺が部長の神田新太。よろしくね」

 温和そうな男子生徒——神田先輩はそう言って手を差し出した。

「柊友人です。……よろしくお願いします」

 握手しながら答えると、神田先輩は苦笑いした。

「といっても、君が入部すると決まったわけじゃないからね。もちろん、入部してもらえると嬉しいんだけど、まずは彼女に挨拶してもらってからかな」

 神田先輩は女子生徒に声を掛ける。振り向いたその人は綺麗な人だった。長い黒髪を肩口で緩く結っており、目は少し瞳孔が開き気味でハイライトが淡いがそこがミステリアスさを出している。高校生というには少し大人びた印象だ。

「カナタ、この子、部活見が」

「なあ、お前」

 神田先輩が僕を紹介するより先に、カナタと呼ばれたその人が口を開いた。

「自殺したいと思ったことはあるか?」

「え……?」

 自殺。その単語だけで頭が真っ白になった。

 何をどうしたか覚えていない。

 ただ、確実に言えるのは——僕は逃げた。


 ◇◇◇


「カナタ、あの質問はないよ」

「いつものことだろう、アラタ。……言い訳をするのなら、あいつは」

「ん?」

「あいつは……お前に似ている気がしたんだよ」

「俺に?」

「ああ。だから、もしかしたら答えてくれるかもしれないと思って」

「変わった愛情表現だね。俺はむしろ、カナタに似ている気がしたよ」


 ◇◇◇


 相模叶多、というらしい。先刻の文芸部の先輩は。そして噂の文芸部史上最高の根暗な生徒である。根暗というか、頭のねじが飛んでいるだけのような気もするが。

 自殺志願者なのだ。そんな異常な彼女の側には幼馴染みの神田先輩以外、近づこうとしない。初対面であんな質問を無遠慮にするような人だ。他者が近づきたがらないのも無理はないだろう。

 自殺志願者——自殺という言葉はもう二度と聞きたくないものだった。それは母がしたことであり、あの子がしたことだ。幾度となく、僕が考えた言葉で、もう忘れようと誓った言葉だった。

「どうして、自殺なんて……っ!」

 呟きつつも、僕は何度も自殺したいと思ったことがあるから、続きを言うことはできなかった。

 項垂れて歩いていると、いつの間にやら教室に着いていたた。

 放課後だが、まだ誰かが残っている。

「よう、友人」

「……悠斗……」

 僕の名前を呼ぶ存在にはっとする。今会いたくない人物のランキングをつけるなら、かなり上位に入る人物。

 橘悠斗だった。僕の唯一無二の親友。

 彼は普段どおりの挨拶はしたものの、目は笑っていなかった。むしろ僕を責め立てるような鋭い眼光を放っていた。

 僕を試すような声色で、彼は問いかけてける。

「──どの部活に入るか、決めたのか?」

「まだ……決めてないよ」

「そうか」

 悠斗は呟くように言い、不意に立ち上がった。ずんずんと僕に詰め寄ってくる。

「どうして、卓球部じゃないんだよ!?」

 僕はまだ、卓球部に入らないとは言っていない。けれどもわかったのだろう。僕にもう卓球をやるつもりがないことを。

「……桜のことを、思い出すから……」

 正直な思いを告げた。悠斗は叫んだ。

「桜のこと、忘れる気かよ!?」

 その叫びは、ぐさりと刺さった。

 桜なのは。卓球部で、クラスメイトだった彼女は、中学三年生のとき、自殺した。──僕に遺書を遺して。

 それがずっと、胸の奥の方で溶けない氷の塊となって疼いているのだ。苛むように。

「……忘れられないよ。だから苦しいんだ」

「だから卓球をやめるのか? そうやって苦しみから逃げるのかよ?」

 何も言い返せなかった。

 僕は逃げていたから。桜が死んだ苦しみと、自分が傷つけたのだという罪悪感を、どうしても忘れたかった。

「……お前、変わったよな」

 答えない僕の横を通りすぎ、悠斗はぽつりと言った。

「以前のお前は、痛みも苦しみも全部受け入れて、それでも真っ直ぐに生きようとしていた。性格がひねくれても」

 でも、と悠斗は続けた。

「今のお前は違う。……桜を遠ざけて、何になるっていうんだよ?」

 僕の答えを待たず、悠斗は去って行った。

 悠斗の語気が荒い理由は知っている。桜は悠斗の想い人だった。悠斗はついぞ告白しなかったけれど、親友だ。それくらいは知っている。

 桜が死んだとき、呆然としていた僕よりも、桜のために泣いたのは悠斗だ。……どうして、桜は悠斗ではなく、僕なんかに「好きです」なんて残したのか、今でもわからない。

 悠斗が桜の想いを知って、苦しみながら、黙っていたことを思えば、僕を責め立てるのも無理はないと言えるだろう。

 けれど。

「……どうしたらいいか、わからないんだよ……」

 この痛みを、苦しみを。

 遠ざかっていく足音を聞きながら、僕は続けた。

「自分の罪を正面から受け止められるほど、僕は強くないんだ……」


 翌日。僕は園芸部の見学に行った。園芸部は学校の昇降口付近の花壇や少し離れた場所にあるビニールハウスなどで活動をしている。この部はこの部で、運動部を避けやすくはある、と判断した。

「えっとあなたは……柊くん、だっけ?」

 同級生とおぼしき少女が声を掛けてくる。が、生憎と僕はまだクラスメイトの顔と名前を一致させられていなかった。

「……君は?」

「同じクラスの百合原ゆりはら弓江ゆみえ。園芸部に入ろうと思って。柊くんも見学?」

「うん。……入るかどうかはわからないけど」

「じゃ、一緒に行こう」

 僕の返事も待たず、百合原さんは手を引いて歩き出した。園芸部の活動している花壇へと向かった。

「こんにちはーっ、部活見学に来ました」

「あ、いらっしゃい」

 花を育てる部活、ということで、さすがに男子部員は多くないようだ。男子は眼鏡をかけている人とキャップを被っている人だけだ。他の部員も含め、僕の姿をもの珍しげに見つめた。

「花に興味があるの?」

「あ、えと……はい、まあ」

「何の花が好き?」

「ええと……」

「その前に名前教えて」

「出身どこ中?」

 質問責めに遭った。昨日とは別な意味で困る。けれども、昨日のあの質問に比べたら……

 憂鬱になるのを堪えながら、質問に一つ一つ答えた。

「へえ、柊くんかあ。柊っていったら植物よね。どういうのだか、知ってる?」

「ええと……魔除けの木だというのは聞いたことがあります」

「まさかのソッチ方面の知識!? ま、いいけどさ。ところで、何の花が好き?」

 そう聞かれて、答えられないことに気づく。僕は自分の好きな花なんて、考えたことがなかった。

 ——咄嗟に思いついたものを、答える。

「鳳仙花です」

 夏に咲く花だ。少し苦いものが口内を満たしたような気がする。好き、というには思い出したきっかけがいい記憶ではなかったから。

「鳳仙花、ねぇ……どうして?」

 更なる質問に、僕は記憶を手繰りながら理由をまとめる。

「ええと、確か、花言葉が」


「花言葉は[私に触れないで]。そうして実を散らして、他を寄せ付けない、寂しい花……」


「でもね、お母さんはこの花の、そんなところが好きなの」


 そう、それは……母さんが好きだった花、だ。

「花言葉、ねぇ……変わった趣味してるのね。って、あれ? 前にも似たような受け答えをしたような」

 部長は首を傾げたが、ま、いっか、とすぐに切り替えた。

「柊くんってすごいね。花言葉まで知ってるんだ」

「そ、そうかな?」

「だってさ、白百合の花言葉は?」

「純潔」

「黄色のチューリップは?」

「実らぬ恋」

「藤!」

「貴方を歓迎します」

「ほら!」

 百合原さんは興奮しきってすごいすごいと言う。無邪気だな、と微笑ましく思いながら笑うと、今度は部長と名乗った人が訊いてきた。

「じゃあ、桜は?」

 ──その一言に、心が凍りつく。

 桜……

「桜の、花言葉は——」

 それは僕が自殺に追いやった、あの子の名前と同じ花だから。

「精神の、美しさ……」

 よく覚えていた。


「本当は好きなんじゃないの?」

「嫌いだ!!」


「俺はこんなの、大嫌いだ」


 そうだ。あの子が最も大切にしているものを、そうやって貶したから、あの子は……

「柊くん、柊くん?」

 声を掛けられていることに気づき、はっとする。百合原さんの心配そうな顔が覗き込んでいた。

「どうしたの? 急に俯いて黙り込んじゃって」

「い、いえ、なんでもありません……」

 僕が慌てて答えた直後、部長が突然、あっ!! と声を上げ、一同が驚いた。どうしたんです? と眼鏡の男子部員が訊ねると、部長は一言謝罪して、こう答えた。

「今、思い出したんだよ。さっきの鳳仙花のくだり。似たようなやりとりをしたやつらのこと」

「やつらってことは、何人かいるんですか?」

「二人だけだけどね」

 部長は校舎の三階——ちょうど図書室がある辺りを見て続けた。

「相模叶多と神田新太。あの文芸部の名物コンビさ」



 帰り道、僕は意外な人に呼び止められた。

「昨日はごめん、柊くん」

 文芸部の部長の神田先輩だった。

「い、いえ」

「部活、もう決めた?」

 その質問に咄嗟に言葉が出てこない。どう答えたものやら、と思いながら、園芸部の部長が言っていたことを思い出す。

「……あの、つかぬことを聞きますが、神田先輩と相模先輩ってもしかして、恋人ですか?」

 神田先輩はその質問にきょとんとし、直後に噴き出した。

「えっと……僕、おかしいこと言いました?」

「ううん。そう言われたの久しぶりだったから。なんだかおかしくって。君がおかしいんじゃないよ? でもね、俺とカナタはただの友達だよ。それ以上でもそれ以下でもないんだ。多分一生ね」

「……そこまで言い切るんですか」

「うん。カナタも同じこと言うと思うよ」

 神田先輩は笑顔で答えた。

「相模先輩って自殺志願者だって聞いたんですけど……そんな人と一緒にいて、辛くないんですか?」

 それが不思議だった。昨日少し見ただけでも、この人だけは相模先輩に普通に接しているように思えるのだ。自殺志願者という異様な人物に対して。

「カナタと一緒にいることが辛いと感じたことはないよ。むしろ、側にいないと不安、かな。カナタがいつ、本当に死んでしまうかわからないからね」

 顔を翳らせて先輩は続けた。

「俺はカナタが死のうと思ってしまう理由を知ってるから。——カナタに必要とされなくなるまでは側にいたいと思うよ」

「あくまで友達として、ですか?」

「うん。友達として」

 先輩の顔に笑顔が戻る。どうしてこのタイミングで笑えるのだろうか。本当に不思議な人だ。

「ところで話を戻すけど、どこかよさそうな部活、あった?」

「今日は、園芸部に行って来ました」

「花が好きなの?」

「いいえ、そういうわけでも……」

 僕は言葉を濁した。後ろめたいことは何もないはずだけれど、「クラスメイトに誘われて」というのが、何故か憚られた。

 代わり、今度は僕は思い切り話題を変えた。

「——先輩は、鳳仙花が好きなんですってね」

「俺?」

「二人ともです」

 すると、先輩は遠くを見つめて言った。

「私に触れないでって拒絶するように弾けてしまうあの花が、なんだかカナタみたいでね。……君もよく似ているよ」

「え?」

 僕が鳳仙花に似ている? どういうことだ?

 僕の疑問を汲み取ったのか、神田先輩はこう続けた。

「関わりたくなさそうだもの。周りと」



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