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第9話 そして、彼は自殺した。Ⅱ

 目覚めると、白い天井はなかった。

 目が開いていないのか? 何かが目元に巻かれている感触がある。それが目が開くのを阻害しているようだ。瞼を震わせると、睫毛が当たって、なんだか目がごろごろするというか……取ってしまおうか、と起き上がると、友人、と名を呼ばれた。この声は、悠斗か?

「友人、俺がわかるか? 悠斗だ。……ハルトって言った方がわかるか?」

「ああ、やっぱりお前か。なあ、俺の目に何が巻かれているんだ?」

「何って、包帯だよ」

 それから悠斗は簡単に状況を説明した。どうやら俺は急に動いたせいで完治していなかった頭の傷が脳に異常をもたらし、目眩や頭痛を引き起こしたらしい。

 手すりにすがれなかった俺は、そのまま階段から落ちて、頭を打ち、視覚に影響する部分を負傷したらしい。

「目、見えなくなってるかもしれないってさ」

「そうか」

 馬鹿だな、俺。ただのドジじゃないか。階段踏み外して落ちて、失明の危険性ありとは。

 友人だけじゃなく、本当の光も失うなんて、滑稽すぎる。

「なあ、この包帯、外してくれないか?」

 自嘲気味に笑いながら俺は悠斗に言った。悠斗が立ち上がるか何かしたのか、がたんと椅子が転げるような音がした。

「何言ってんだよ!? お前は絶対安静、包帯も医師の指示なしに外すなって言われてんだ。できるわけないだろ!」

「ん、ならいい。自分で外す」

「おい!」

 手を掴まれ、動きが止まる。悠斗が俺を止めたのだ。

「何だよ?」

「……やめろよ」

 悠斗の手は小刻みに震えていた。

「やめてくれよ。俺、お前が、目が見えなくなってるのなんか嫌だ」

「でも、見える可能性も残ってんだろ」

「……前向きでいいよな、お前は」

 悠斗は溜め息を吐き、続けた。

「確かに、一縷の望みはあるさ。でも、もし見えなかったらって思うと……怖いんだよ」

 声も震えていた。


「何も見えなくなったとき、鏡と手紙に触れてみてください」


 ふと、叶多の手紙を思い出した。——そうだ。

「俺はさ、まだ試したいことがある。試してないことがあるわけよ。……だから」

 悠斗の手をそっと払い、俺は包帯を手探りながら取った。

 ……

 …………

 ………………

 眩しくなくていい。

 俺はやはり夜の人間だな。

 包帯をはらりと手放して、俺は思った。

「友、人……?」

 悠斗の声が聞こえる。きっと、不安げに俺の様子を伺っているのだろう。確認はできないが。

 ——何も、見えなかった。

「友、人……」

 消え入りそうな声でもう一度俺の名を呼ぶ悠斗。その声に振り向くが、やはりどこにいるかわからない。

 予想はしていた。だから絶望はしない。俺は笑って言った。

「小さいテーブルの上に鍵つきの鏡と手紙があるはずだから、取ってくれ」

 悠斗の小さな返事のあとに、動く気配。数秒後に手に冷たい感触が伝わってくる。おそらく鏡だ。

「鍵、開けた方がいいか?」

「いや、大丈夫だ。次は手紙だ。開いてちょっと読んでみてくれ」

「……いいのか?」

「ああ」

 かさかさと音がする。悠斗は読み上げた。

「[鏡を見てください。それが貴方です。これは紛れもない事実なのです]……これが一枚目だけど、どういう意味だ?」

「さあな。何せ叶多さんからの贈り物だ」

「そっか。じゃ、次読むぞ。[何も見えなくなったとき、鏡と手紙に触れてみてください。それが貴方の生きている証です]」

 俺が読んだときと全く同じ文。それも当たり前なのだが、わざわざ手紙に書くくらいだ。何か仕掛けがあるのではないか?

 そう思ったとき、悠斗が声を上げた。

「友人、余白に点字がある。ちゃんと凹凸になってるぞ」

「読ませてくれ」

 悠斗が手を添えて、点字部分をなぞってくれる。

「読めるのか?」

「……前に叶多さんに教えてもらったんだよ」


「自殺行為がリストカットで足りなくなったとき、お前は死なない程度に自分を傷つけるとしたら、どうする? 友人」

「カナタは相変わらず、すごい質問投げてきますね」

「いいから答えろ」

「そうですね……目、ですかね」

「それは何故?」

「……見えなくなれば、現実と向き合わずに済むから」

「なるほど。では早速、目を潰す前に点字でも覚えようか」

「潰す気ですか」


 思えば、すごい会話だった。

 けれど、納得した。それで、何も見えなくなったときなのか。

「友人、その記憶って……」

 わかっている。[友人]がいなくなったことで[友人]の記憶が俺のものとして、統合され始めているのだ……見えないというのに、嫌な現実と向き合わされる。——これは友人がもう二度と、戻って来ないことを示している。

 悠斗の手が止まる。

「これで一枚目の点字は終わりだ。何て書いてあったんだ?」

「鏡に触ってみましたか? 冷たいと思ったでしょう?」

 それで文は止まっていた。悠斗の手を借りて、二枚目もなぞる。

「それが貴方の生きている証です。たとえ光を失っても貴方は冷たさを感じとることができます。それが生きている証です。それは貴方が友人である証でもあります。 貴方は私に生きる意味を与えてくれました。だから貴方も生きてください」

 長めの文の後、一言、訳のわからない言葉が添えてあった。

「お にたひら むたは」

 俺が言うと、悠斗もなんだそれ? と頭を悩ませた。

 ふと気づく。

 そして笑った。

「ははっ。遠回しにストレートなことを……」

「わかったのか?」

 意味を訊いてくる悠斗に、俺はこう答えた。

「月が綺麗ですね——ってさ」

「へ?」

「文芸部流の、洒落た表現さ……」


 ◇◇◇


「入らないのか? 桜 ほのか」

「相模さん……だってわたし、あのとき、帰れって」

「でも、来たのだろう? なら、遠慮することはない。入ってもたぶん、友人は怒らないぞ?」

「え? でも」

「それでも気まずいと思うのなら……笑うのをやめろ」

「えっ……?」

「あいつはな、桜なのはの顔で歪んだ笑みを見せられるのが嫌だったんだよ、きっと。それに、お前は[なのは]ではないのだろう?」

「あっ……」

「そういうことだよ。行って来い」

「ありがとうございます……! でも、どうして相模さんがわたしの背中を押してくれるんですか? わたしは柊先輩にひどいことしたのに……」

「……だって、月が綺麗なんだろ? 友人と見ると、さ。私もそうだからだよ」


 ◇◇◇


 扉の開く音がした。

「ん、誰?」

 側にいるはずの悠斗に訊くが、返事はない。代わりに別な声が返ってきた。

「柊先輩。こんにちは、ほのかです」

 なるほど、ほのかか。悠斗がすぐに反応できないわけだ。今のほのかは桜そっくりの顔だから。もう俺には関係のないことだが。

「……ほのか、こっちに来てくれ」

 名を呼ぶと息を飲み、そろそろとほのかが近づいてくる気配がした。

「えっと、この椅子、座っていいですか?」

「どの椅子か知らんが、好きにしてくれ。俺、今何も見えないんだ」

「えっ……」

 戸惑うほのかに悠斗がほら座れ、と椅子を勧めるのが聞こえた。

「先輩、見えないって、どういう……?」

「その前に……ごめんな」

 声だけを頼りにほのかがいると思われる方向を見て言った。

「お前、ちゃんと謝りに来たのに、追い返して、さ」「い、いいんです! そんなことっ……私が、先輩にひどいことしたし、ひどいこと言ったから……」

「ああ、いいよ。俺も今からお前にひどいこと言うから、そのことについてはお互い様だ」

 え、と虚をつかれたような声を上げるほのかに俺は続けた。

「俺はもう、お前の知っている[柊友人]じゃないんだ。たぶんもう二度と元には戻れない。ごめんな、ほのか」

 数瞬の沈黙。そののちに、俺の手に暖かいものが降り注いだ。

「ほ、ほのか……?」

「ありがとう、ございます」

 涙まじりでほのかが言うのに、今度は俺が虚をつかれた。

「ありがとうございます。ちゃんとわたしに、ほのかに言ってくれて……なのちゃんじゃなくて、わたしに……」

「な、泣くなよ!」

「嬉しいんです! ……悲しいけど、嬉しいんです!」

 訳がわからない。こういうとき、表情が見えないのがもどかしい。

「先輩、ごめんなさい! ごめんなさい……! わたしはなのちゃんに嫉妬してたんです。みんなみんな、誰も彼もがなのちゃんばかりを褒めるから、わたしはなのちゃんの妹、劣化版としか扱われなくて……柊先輩なら、[わたし]を見てくれるって……そんな、わたしの独りよがりな思いに巻き込んで、こんなことになってしまって……ごめんなさい!!」

 ほのかは声を上げて泣いた。ほのかが声を上げて泣くのなんて、初めて聞いた。

 ひとしきり泣くと、最後に一つだけ、とほのかは言った。

「もう答えはわかっているんですけど、言わせてください。……わたし、先輩のこと、好きです」

「ああ。……答えなくてもいいか?」

「はい。──では先輩、お大事に」

 そうしてほのかが出て行った後、悠斗がそっと言った。

「ほのかちゃん、笑ってたぞ」

 そうか。

 ようやく桜ほのかは温室から抜けられたんだ。


 ある夜のこと。病室に客が訪れた。

「遅くに悪いな、友人。今日は大学の講義がぎっしりで、バイトもあって、こんな時間な上に一時間くらいしかいられないんだ」

「いいですよ、カナタ」

「え……?」

 その客──相模 叶多は驚きの声を上げた。今の友人は決して叶多を呼び捨てにはしない。まだ、自分が[ユージン]ではなく本当の[友人]だということにわだかまりを感じているからだ。しかし、ということはつまり——

「友人……? 友人なのか!?」

「はい、僕です。お久しぶりです」

 人格交替が起こったのだ。今の柊 友人は僕。学校人格の[友人]だ。

「お前、どうして……」

「もう一人の[友人]を助けに来ました。この間頭を打ったので、一時的に復活したんです。ほら、砂嵐になりやすいテレビをばんばん叩いたら治った、みたいなあれです」

「例えがすごいな」

 苦々しく呟き、叶多は問いかけてきた。

「しかし、もう一人を助ける、とはどういうことだ?」

「今、目が見えていないでしょう? それを治すんです」

 僕は叶多の目を見て答えた。叶多がそれに気づき、はっとする。

「お前は今、見えているのか……?」

「はい。カナタは相変わらず美人ですね」

「なっ……さらっととんでもないことを言うな!!」

 叶多の顔が赤く染まる。僕は少し笑ってから、話題を戻した。

「さて、[友人]の目のことなんですが。彼の目は一時的にショックで見えなくなっているだけなので、何か別のショックを与えれば治ります。実際、僕は見えていますから」

「何故お前は見えるんだ?」

「身体的なショックじゃなくて、精神的なショックから目が見えなくなっているんです。精神的なショックの影響を受けていなければ、目は見えますよ」

 僕の説明に、叶多はよくわからないといった顔をした。叶多はそれなりに頭がいいはずだが、それでも精神と肉体が結びついていない、というようなこの説明を理解するのは難しいのだろう。自分でも、何を言っているのかわからなくなりそうだ。けれど僕は感覚的に理解していた。

 つまりは、僕がもう[柊友人]でなくなりつつある……あるいは、僕という存在が柊友人にとって、異物となっている、ということだ。

「ショック療法というと語弊があるかもしれないですけど、僕が死ねば、[柊友人]は元に戻ります」

「死……!?」

 叶多ががたん、と物音を立てた。僕の襟首を掴みそうになってやめる。病院から至急されている服が、何かの琴線に触れたのだろう。

 僕は伸ばされかけた手をそっと振り払った。叶多なら怒ると気づいてはいたけれど、本当に怒ってくれたことが、それなりに嬉しくもあり、寂しい。

「別に、肉体的には死にませんよ。[僕]という人格は、彼を助けるために、消えるんです」

「どういう、ことだ?」

「今の僕は柊友人の中に生まれたノイズのようなもの。……友人が気づかずに抱いていた[僕]への執着によって僕は留まっていました。その友人が僕をここに留めようとつけている糸を外すだけです。死ぬといっても、そんなに大がかりなことをするわけではないんです。一度目を閉じて眠る。僕がするのはそれだけです」

「だが、お前はそれでいいのか?」

 叶多の目は、嘆願するようだった。

「せっかくまた、元に戻ったのに……死ぬ、という選択肢でいいのか?」

 違うと言って、と彼女の目は叫んでいた。けれども──

「叶多は、柊 友人が嫌いですか?」

「そんなわけあるか! 誰よりも好きに決まっている」

「なら、これからも彼と仲良くしてくださいね」

 心はもう、決まっていた。

 卑怯な言い方だ、と申し訳ない思いで叶多を見る。──声を殺して泣いていた。

「お前だって、友人だろうに……」

 僕にすがる叶多の髪をそっと撫でた。そう時間はない。ゆっくりと、伝えておかなければならない言葉を紡ぎ出す。

「最期に、悠斗と父さんに会えないのが心残りです」

「なら逝くな」

「それはできません。だから、手紙を……二人によろしく頼みますね」

 テーブルの上の便箋を示すが、俯いて叶多は見ていない。


「……最期に会えたのが、叶多でよかった」

 僕の言葉に、ようやく叶多が顔を上げる。目が合って、ほっとして……後ろに倒れそうになる。叶多が慌てて支えてくれた。顔が近くなる。鼻先がぶつかりそうなほどのその距離に、お互いはっとして視線を反らす。

「カナタ、離していいですよ」

「い、嫌だ」

「ええ? いや、その、顔、近」

「それが、なんだ。離すものか。離したら、お前は……」

「そろそろ眠いです。寝させてください」

「お前、人の話をっ……あ……」

 伝い落ちる、という感覚はなかった。ただひどく、それが通ったあとが冷たかった。

「ごめんなさい……ありがとう……カナタ……」

「ああ」

「僕はそろそろ眠るよ……」

「ああ。おやすみ、友人」

 ゆっくりと瞼が落ちていくのを感じながら、僕は呟いた。

「おやすみ、叶多……」


 そして、彼は自殺した。


to be continued...


 ◆◆◆


「お にたひら むたは」

 点字は万国共通で存在する。点字の組み合わせをその国の文字に当てはめているのだ。かつてはそのバリエーションを保つために、点字は縦四つ、横二つの八つの点から成るものだったが、現在は縦三つ、横二つの六つの点から成る点字が主流である。

 何が言いたいかというと、この叶多が送ってきた謎の文言は「日本語ではない」ということだ。

「お にたひら むたは」

 [お]はローマ字の[i]

 [に]はローマ字の[L]

 [た]はローマ字の[o]

 [ひ]はローマ字の[v]

 [ら]はローマ字の[e]

 [む]はローマ字の[y]

 [は]はローマ字の[u]

 といった感じで点字に対応している。頭文字なのに[i]が小文字なのと頭文字じゃないのに[L]が大文字なのは、単純に[i]と[L]の区別をつけやすくするための表記である。

 つまるところ、「お にたひら むたは」とは、風流な言い方をすれば「月が綺麗ですね」と表される通り、「I love you」を意味するのだ。

 そんな回りくどい、けれど二人にしかわからないメッセージが、たまらなく愛おしかった。

 僕も、ちゃんと、伝えればよかったかな。もう会えないのなら、柊友人じゃなくなるのなら。

 [僕]だって、ちゃんと叶多を愛していたって。

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