柊友人は小学校に上がる前、目の前で母を亡くした。手首を切っての失血死とショック死による自殺だった。動機は友人自身がよくわかっていない。友人の父は思い当たるところがあるのか、どうかといった感じで、知っているとしても友人には話していない。それからほどなくして母の弟にあたる叔父も首吊りで逝去。
上記の出来事により、友人は[自殺一家の子]と蔑まれ、陰湿ないじめを受ける。お前は絶対に死ぬな、という父の嘆願を小さな頭に刻み込んで必死に耐えてきたが、あるときそれは決壊し、母と同様の方法で自殺を図った。
そこに彼を止める者が現れた。名は橘悠斗といい、名の音が友人と同じく[ユウト]であったがために、同様のいじめを受けていた。友人を励まし、立ち直らせてくれた彼は友人唯一無二の親友となった。それでも、友人の汚名が濯がれることはなく、いじめは小学校卒業まで続いたが。
中学生になり、友人と悠斗は二人とも遠くの中学へ通うことに。
そこでこれまでを忘れるために何かに打ち込もう、ということで卓球部に入った。その卓球部で、二人は桜なのはという卓球が誰よりも大好きで誰よりも下手な少女に出会う。桜は自分ではできないものの、教え上手で、友人も悠斗も桜の指導を受け、みるみる上達していった。
中学三年生、最後の大会で友人は全国優勝する。その後、卓球のことで桜と言い争いになった。そのときの言い合いで、友人ははからずも桜の地雷を踏み抜いてしまい、翌日、桜は友人に遺書を遺して自殺した。奇しくも友人の母と同じ死に方だった。友人宛の遺書があり、そこには「卓球をやめないで」と書かれていた。
しかし、その約束は守られなかった。友人はラケットを握れなくなってしまった。
ラケット、ボール、テーブル、ネット、参考書……卓球に関わるものを見ただけで、手が震え、息苦しくなる。そんな苦しみを抱えることとなった友人の心は二つに割れた。
学校人格と家庭人格。二つの人格は過去の記憶は共有するが、人格が二つになってからの記憶はそれぞれ独立している。また、二つにはそれぞれの役割がある。学校人格は学校など家の外で[普通]の生活を送るための人格。一方、家庭人格は主に家の中で活動し、学校人格が絶対しないであろうことをすることで、柊 友人の中に溜まったフラストレーションを解消するという役割を持つ。
友人の二重人格という事実を知る者は少ない。
父、友達の橘悠斗、そして高校で出会った部活の先輩、相模叶多の三人だ。この三人は[柊友人]の運命を大きく変えた人物であり、友人が最も信頼している者たちである。
それだけに、ショックは大きかった。
柊友人の片割れが消えたという事実は。
◇◇◇
「……そうか。やはり、そうだったんだな」
人気のない喫煙所で、柊友人の父は悠斗と叶多から話を聞いていた。
柊友人の片割れが消えた、と。
「やはりということは、想像ついてたんですか?」
「なんとなく、だけどね。理由は単純だよ。彼の方が以前の友人に似ていたから」
柊の言う彼は、友人の家庭人格である。家庭人格は悠斗や叶多には[ユージン]と呼ばれていて、自らも柊友人の副人格だと認識していた。だからこそ、二重人格となるきっかけとなった[桜なのは]のことから解放されれば、[ユージン]が消えるのだ、と彼自身は思っていたのだ。しかし、それは逆だった。消えたのは[ユージン]ではなく[友人]の方だった。主人格は[ユージン]で、[友人]の方が副人格だったのだ。
[ユージン]と[友人]の違いはやはり[性格]だろう。[ユージン]は自分の身に降りかかる
対して[友人]は、桜のことを思い出したり、自殺という言葉が出たりするだけで精神的に大きな打撃を受け、すぐには立ち直れないという側面を持っていた。叶多と出会ってからは大分改善されてきたが、それでも[友人]が持つ精神的な弱さは目立った。二重人格となるまでは考えられなかったほどの。
「友人はね、本当は強い子なんだよ。精神科医にも言われたが、二重人格ならもっと以前に起こっていてもおかしくはなかったんだ」
柊の言うとおり、友人は母が目の前で自殺したのを見、クラスメイトからのいじめなど、精神崩壊を起こしてもおかしくない条件が整っていた。
「でも友人は耐えた。父に言われた[お前は死ぬな]という言いつけをずっと胸にして、耐えていたと私は聞いた」
叶多の一言に柊は胸を衝かれた。驚きのあまり、こくりと息を飲んで、叶多をまじまじと見る。確認するのに、言葉が声にならず、何度か口を開けては閉じた。
少し俯き、苦味を帯びた表情で呟く。
「友人は、そんな昔のことも覚えていたのか」
柊の心情を慮り、叶多と悠斗は閉口した。その声はあまりにも乾いていて、虚しく沈黙の中に溶けていく。
叶多はその気まずさを振り払うように首を横に振って、続けた。
「それにしても、その一言だけで耐えられるなんて常人じゃできない。いじめは六年間続いていたのだろう? 橘」
「はい。一年の頃から[自殺一家の子]の噂は流れていましたし、知り合ってからも卒業するまでずっとひどいことされてたらしいですよ」
「……強いな、友人は」
叶多の知る友人は大半が学校人格の[友人]だ。[友人]は脆くて触れたら壊れてしまいそうな印象があった。それでも辛いはずの過去と向き合おうとした強さに叶多は憧れていた。
けれども、友人は叶多が思っていた以上に強かったのだ。
「ただ、今まで強くあった分、やっぱりユージンにとって[友人]が消えたというのはショックなことだと思います」
言いながら、悠斗は昨日会ったユージンの姿を思い出していた。
「俺は一体、何のためにあの子を助けたんだ……?」
[友人]のために、といつも気を回して行動していた。一所懸命だった人物から出た弱々しい呟き。悠斗はそれでも、自らの身に降りかかった出来事と向き合おうとする意志が切なくてたまらなかった。
「どうして、こうなってしまったんでしょうか……」
他に誰もいない喫煙所の重い空気に、悠斗の声は沈んだ。
沈黙が続く。柊は煙草もライターも手にしていたが、火を点けようとはしない。
どれくらい、そうしていただろうか。正午を知らせる鐘が鳴った。
「……昼食前に、会いに行ってみるか」
叶多が動いた。案内をしよう、と毎日通いづめの悠斗が先に立つ。柊だけは一服したら、と言い、その場に残った。
三十分後、結局一本も火を点けずにそこから立ち去った。
◇◇◇
どうしてだろう?
白い天井を見つめながら、ずっとそれだけを考えている。
どうして、友人はいなくなって、俺はここにいるんだろう?
消えるのは、俺のはずだった。
だってそうだろう? 普通、主人格は比較的長い時間表に出ているものだ。友人は学生だ。家にいる時間より外にいる時間の方が圧倒的に長い。親友の悠斗も、俺を[友人]とは決して呼ばない。それは俺が本当の友人ではないからだと思っていた。長年友人とともにいた悠斗が間違うわけがないじゃないか。
でも、親父は逆だった。決してもう一人を[友人]とは呼ばなかった。親父が[ユウト]と呼ぶのは俺。でも、俺の前でだけ、そうしているんだろう、と思っていた。どちらも[柊友人]なんだと俺を慰めるために。
けれども、そうではなかった。そうだよ、親が我が子を間違うか? そんなわけない。
少なくとも、男手一つで十年以上育ててくれた親父は間違わない。
でも、
それでも、
消えるのが、どうして俺じゃなかった?
とりとめのない思考をやめ、起き上がり、ベッドを降りて、白いカーテンを開ける。日射しがさんさんと部屋に入ってきた。……眩しい。
友人はこんな光の中で生きてきたんだな、としみじみ思う。俺は家にいるときだけ。専ら夜で、昼間であっても、家から出ない。だから、こんな明るさ、久しぶりだ。明るさなんて忘れて、それを知らずに俺は生きていくんだと思っていた。俺がいつか消えても、それは友人の心の闇が祓われるということだから、友人はずっと光の中で生きていけるのだと思っていた。
それなのに今、光の中にいるのは俺だ。
どうしてだ?
どうしてなんだ?
「友人」
聞き覚えのある声に振り向くと、そこには相模叶多がいた。
「俺は友人じゃない」
いつもは俺をユージンと呼ぶ人物に反論した。
「……ようやく、籠から出られたのだな」
意に介した様子もなく、叶多は言った。
「籠? 何のことだ?」
意味がわからず、おうむ返しに訊いた。
「以前言ったろう? お前は籠の中の鳥だと。それは、正真正銘お前に言った言葉だ。つまり、お前はゆ」
「言うな!!」
俺は、叶多の言わんとするところを察し、叫んだ。
「それ以上、言わないでくれ……」
「では、もう言わない。しかし」
叶多は無表情で続けた。
「私はこれからお前をずっと友人と呼ぶ。紛れもない、事実だからな」
そう言って去りかけたところで立ち止まり、ベッドの脇の小テーブルに何かを置いた。見たところ、鍵と錠のついたA5サイズくらいの何かだ。
「これは私からの見舞いの品だ。気が向いたときにでも開けてみろ魔法の鏡だ」
言い置いて、叶多は去って行った。
「鏡なんて……もらっても、嬉しくねぇよ」
相変わらず、よくわからん人だ。そう思いながらベッドに戻った。
「私はこれからお前をずっと友人と呼ぶ。紛れもない、事実だからな」
先刻の叶多の台詞が蘇る。
俺は友人。──それは確かに事実だ。けれども事実でこの喪失感は拭えない。腑に落ちない。いや──
認めたくないんだ、もう俺は一人だと。
俺が[友人]の存在を知ったのは、桜が死んでから三ヶ月くらい経ったときだった。親父に明かされたのだ。記憶を共有しない朝人格と夜人格があることを。
俺は二人なんだな、とぼんやり思った。それからどんどん日々を過ごしていくにつれて、自分の役割を理解した。俺は友人のストレス解消役なのだ、と。俺は友人の補佐をするためにいて、友人がいるから俺がいるのだと思っていた。——俺が存在する間は二人であるのが当然なのだ、と。
元々の性格もあったが、辛いことをこれまで越えて来られたのは友人のおかげで、友人のためだった。友人が生きることが、俺の存在価値だった。
一人になるなんて、思いもしなかった。
ある日、ふと叶多の見舞いの品を開けてみることにした。
なんてことないただの鏡だった。ただ、その中に手紙らしきものが数枚入っていた。
「鏡を見てください。それが貴方です。これは紛れもない事実なのです」
一枚目の紙にはそうあった。
二枚目はというと、
「何も見えなくなったとき、鏡と手紙に触れてみてください。それが貴方の生きている証です」
全く訳がわからない。そう思うと、なんだか笑えてきた。
魔法の鏡とはよく言ったものだ。
久しぶりに笑った気がする。
◇◇◇
「久しぶりだな、桜ほのか」
「相模さん……何か用ですか?」
「お前は、友人には会いに行ったか?」
「いいえ。どうしてわたしが行かなくちゃならないんですか?」
「それが責任というものではないのか?」
「え……?」
「お前だって、気づいているのだろう? 友人が
「……どうしてあなたがそれを?」
「橘から聞いた。まあ、私がお前に強制することはできない。気持ちもわからんでもないからな」
「えっ?」
「だって、お前も友人のこと、好きなんだろう?」
「……」
「傷つけてしまったことがひどく苦しい。でも、だからこそ、向き合うべきだと私は思うぞ?」
「…………行ってきます……」
「ああ」
◇◇◇
「こんにち、は」
意外な客が来た。桜ほのかだった。俺はどうすべきか迷って、黙り込んだ。
「お久しぶりです、先輩」
答えずに顔を仰ぎ見る。必死にほのかは笑っていた。痛々しいほどつらそうな笑みだった。——見ていられない。
この期に及んでもこいつはまだ、そうやってごまかして取り繕おうとするのか?
「帰れよ……」
俺の口から、そんな言葉が零れた。ほのかは張り付けられたようにその場に固まっている。
「帰れ!!」
声を荒らげた。
俺の声にほのかは一歩、二歩、と退いていく。
「……ごめん、なさい……」
そう呟いて、出て行った。
──もしかしたら、最後のごめんなさいは、心からの謝罪だったのかもしれない。
そう思い至ったとき、俺は激しく自己嫌悪した。そして、部屋を出て、ほのかの姿を探した。ほのかは二階下の階段をとぼとぼと歩いていた。俺は急ぎ駆け下りて、名を呼ぼうとした。そのとき——突然目眩がして、景色が歪む。頭が痛み、立っていられなくなり、手すりにすがろうと手を伸ばしたが、距離感が掴めず、手は手すりの手前の空を切る。俺は、落ちていく——
やけに頭が痛い。そう思いながら、俺の意識は闇に飲まれた。