「やあ、ユージン。遊びに来たぞ」
珍客だった。俺をユージンと呼ぶのは悠斗とあと一人——相模叶多しかいない。
相模叶多は元文芸部の先輩だ。今は大学に通っている。そして、柊友人が二重人格であることを知る数少ない人物の一人である。
「遊びに来たって……うちには面白いもんなんてありませんよ?」
「まあいいから上がらせてくれ。どうせ何もすることがないのだろう? ならば久々に語らい合うのもよいではないか」
叶多を居間へ上げ、お茶を出し、座る。
「お前と会うのは久しぶりだな」
お茶を一口飲み、叶多は言った。
「そうですね。友人はちょくちょく会ってたようですけど、何か進展は?」
「別に私たちは気の合う友達程度の仲さ。それ以上には……って、何を言わす!?」
頬を赤らめる叶多をさらっとスルーし、俺も自分の湯飲みに口をつける。からかい甲斐のある人だ。複雑なようでいて、根っこが純粋だから、友人と気が合うんだろう。
俺から顔を背けて、拗ねたようにすん、としながら叶多はこぼす。
「どうせ本音など恥ずかしくて言えないさ。ところで、今日はどうした? お前が学校をサボるとは」
「友人が出てこないからだ」
「原因は?」
「桜ほのかって後輩」
「……あの自殺した?」
桜の話は叶多にもした。というか、隠すようなことでもないし、叶多とそういう関係になるのなら、桜のことを隠していては話にならないだろう。友人なりの誠実さでもある。
「それはなのは。ほのかはその妹だ」
叶多が興味深げに言う。
「桜には妹がいたのか」
「両親も健在だよ。後追い自殺なんてしてません」
これだから自殺志願者は、と俺は目を平坦にする。俺と対照的に叶多は目をきらきらとさせていたが「後追い自殺なんてしていません」と聞いてあからさまにしゅん、とする。何を期待していたんだ、まったく……
溜め息を吐きたくなりながら、ほのかについて、簡単に説明する。まあ、俺からの説明だから、認知が歪んでいるかもしれないが……それでも熱心に聞いて、叶多はふむ、と頷いた。
「そのほのかとやら、私と同じ臭いがする」
「どういう意味だ?」
同じ臭い? 叶多とほのかが?
訝しむ俺に対し、少し考え、叶多は答えた。
「つまり、温室の中の野の花ということだ。普通なら住みよいはずの場所に生えた野草は、居心地が悪くて異常を起こし、もがくんだ。ここは自分のあるべき場所じゃない、と」
なるほど、だからほのかは桜に……
自分は苦しいのに同じ環境で幸せそうに暮らす桜に嫉妬しているのか。
「なんか、俺に似てるな」
「そうか? お前はどちらかというと籠の中の鳥の方が合っていると思うが」
自由に羽ばたけない鳥、か。そのとおりかもしれない。
でも俺は、羽ばたけないなりに友人のためにできることをする。
俺は友人のために存在しているのだから。
「こんにちはー。柊先輩、いますかー?」
信じられないことに、ほのかが家を訪ねてきた。僕が慌てて出ようとすると、叶多に止められた。僕が学校を休んでいたのは風邪を引いたからだと聞かされ、仮にも病人なのだから座っていろ、と叶多が代わりに出た。
「あ、柊せんぱ……どちら様ですか?」
「それはこちらの台詞だ」
どうして険悪になるのだろう。二人共初対面なのはわかるけれど、そんなに声低くなることがあるだろうか。
不安になりながら眺めていると、ほのかが口を開く。
「え、えっと、文芸部の一年の桜ほのかです。柊先輩、今日風邪だって聞いたので、お見舞いに来ました」
「ということだが、どうする? 友人」
いや、叶多に任せた意味。
「……どうぞ、上がってください」
招き入れた彼女は、何度見ても桜そっくりだった。
元々姉妹だったから、声も似ているのだろうか。ほのかが喋ると、桜が喋っているみたいで、少し胸悪い感じがした。失礼なのはわかっているが……桜はもう死んだんだ、としっかり認識しているからこそ、桜にそっくりなほのかという存在は気味が悪い。
顔色を伺う所作まで似ていて、僕は頭がおかしくなりそうだ。
「先輩、大丈夫なんですか?」
「うん、一日休んだから、すっかり良くなったよ」
本当は自分でも休んだ理由はよくわかっていないのだが、なんとなく、具合が悪いのはわかった。ほのかの顔が桜と瓜二つになっていることに、心の奥底から動揺しているのだ。
それは今もよくなっていない。だから嘘を吐いたことになるのだろうが、それでほのかに気を揉ませるのもよくないと思って、零れ落ちそうな何かをぐっと喉の奥に追いやった。
ほのかはそんな僕の様子に気づいていないのか、わりと遠慮なく声をかけてくる。
「ところであの人誰ですか?」
ほのかが叶多を示して言った。挨拶のときも思ったが、何故叶多に対して刺々しい雰囲気を放つのだろう。叶多にも言えることだけれど。
まあ、いいや、と紹介する。
「相模叶多。去年まで文芸部にいた先輩だよ」
「もしかして、恋人ですか?」
「なっ……!? いや、えっと、うん、ううん、全然そんなんじゃないよ。話の合う友達みたいな人」
僕が答えると、ほのかはやけに安心したような息を吐いた。けれども僕はわかっていた。それは安堵というより、意識して気を鎮めようとする息だ。
初対面だから気が立つのか、と紹介したけれど、むしろ叶多への警戒心強まっているように思う。
「先輩の家って広いですね。綺麗に整頓されてますし」
ほのかが話題を変える。あまりにも不自然な話題転換だ。
ただ、ほのかの情緒がまだ僕にはわからないので、流れに沿うことにする。
「掃除とかって、全部先輩がやってるんですか?」
「うん」
すごいですね、と塵一つない棚に触れながら、ほのかが感心する。普通のことだとは思うけれど、僕は曖昧に頷いた。褒められているんだから、悪いことじゃない。
そうして、ほのかの指が棚を滑って、かたん、と何かにぶつかって止まる。
「っ、あれは……」
「ん? ……あ」
ほのかの顔が一瞬にして蒼白になった。おそらく僕も同じだっただろう──視線の先には葡萄の模様の彫られた写真立てがあった。写っているのは中学生の頃の僕と……今の容姿とは似ても似つかないほのかの姿。
中学生のほのか。僕の知っている桜ほのかは、ショートヘアをしていて、スポーティーな印象で、手足がすらりと長い。ただ、顔は美人か不細工かで言ったら、不細工な方だったかもしれない。写真の中の仏頂面の女の子は、目が糸目に近くて、そばかすの多い、眉間にしわのある子だった。二重で目がぱっちりしていて、色白で肌の綺麗な桜とは、お世辞にも似ているとは言えない。
現実のほのかを今一度見る。そこにあるのは、二重でぱっちりとした目、色白な肌にはそばかすなんて見当たらない。元々の骨格はひどく似ていたんだろうな、と思う。
けれど、それはほのかの顔ではなく、桜の顔だ。
「こんな写真が、まだあったんですね」
ほのかはすぐに笑顔を取り戻して言った。近くで見てもいいですか、と訊いてくる。視界の隅で叶多が気をつけろ、と声もなく囁いたが、僕はほのかに頷いた。
ほのかは写真立てを静かに手に取り——直後、床に落とした。
「あ、ごめんなさい。手が滑っちゃって」
そう言いながら、写真立てを拾う。ガラス部分がひび割れていた。どういう偶然か、ほのかの顔の部分に見事に亀裂が生じていた。
「気にしないで。別なのに移すから」
「いえ、このままにしておいてください」
ほのかはきっぱり言った。笑顔は消えて、怯えの垣間見える堅い表情だった。
「昔の自分、嫌い?」
僕は恐る恐る問いかけた。するとほのかは完全に仮面を脱ぎ捨て、言い放った。
「大嫌いです!! だって、私は可愛くなかったですもん。なのちゃんと違って。なのちゃんは運動はできないし、とろいし、鈍いけど、可愛かった。だから誰からも愛されていましたよ。何もできないくせに!!」
「ほのかちゃん……」
「そうよ! 私はほのか!! [桜なのはの妹]なんて名前じゃないわ!! どうしてあんな何もできない子の付属物みたいな扱いを受けなきゃならないんです!? 私は!!」
「では訊くが」
叶多が口を開いた。
「桜なのはは[桜ほのかの姉]ではなかったのか?」
その場の空気が凍った。ほのかが再び写真立てを取り落とす。今度はしっかり、ガラスが割れた。透明な音が響く。
「柊先輩、知ってましたか? なのちゃんが先輩のこと好きだったってこと」
「悠斗から聞いたよ」
「知ってて、振ったんですか?」
何の飾りもない問いに、ずきりと胸の奥が痛む。
「いいや。僕がそれを聞いたのは桜が死んだ後だ。告白されていたことにも気づいてなかったよ」
「ああ、そうなんですか……」
次の瞬間、ほのかは狂ったように笑い始めた。勝利のときの歓喜のような、けれどもどこか虚ろな笑いだった。
「先輩は、知ってましたか?」
ひとしきり笑うと、再び彼女は言った。
「私、なのちゃんが大嫌いなんですよ」
冷たい笑みとともに放たれた言葉。——僕は薄々感づいていた。ほのかが姉をひどく嫌っていることは。
嫌悪という感情は好意より遥かにわかりやすい。
「うん。知ってたよ。だから僕は君が苦手だ。あまり好きじゃない」
「っ!!」
「特に今の君は」
ほのかは息を飲み、目を見開く。叶多がもの言いたげに僕を見たが、何も言わずに黙っていた。
「……先輩は、なのちゃんのこと、好きだったんですか?」
弱々しい声で、ほのかは問いかけてきた。
「好きだよ。きっと、君の言う好きとは、違うけれどね」
ほのかは小さく笑った。そして、ぽつりと言った。
「……償いも、できないくせに」
「え……?」
「償いも、できないくせにっ!!」
怨嗟のような声で繰り返す。
「自分のせいでなのちゃんが死んだってわかってるくせに! 命の償いなんてできないくせに!! なんで今更[好きだ]なんて言えるのよぉっ!?」
その叫びに思考が凍りつく。
僕が傷つけたから、彼女は死んだ。
ずっと後悔している。償いたいと思っている。
でも不可能だ。
彼女は死んでしまっているのだから。
わかっていた。
わかっていたけれど……いつかこう言われる日が来ると、わかっていたけれども。
「どうして忘れないのよ!? 卓球は捨てたのに、どうしてっ、どうしてなのちゃんのことは……っ!!」
[忘れないこと]で償うことはできないのだろうか……?
「桜ほのか」
静かながらよく通る声がほのかの名を呼んだ。ほのかははっとして声の主を——叶多を見た。そしてなぜか作り笑いを浮かべ、何事もなかったかのようにこう言った。
「先輩も元気みたいなので、私は帰ります。お邪魔しました」
一つ礼をすると、ごくごく自然に帰って行った。
すぐ、叶多も立った。
「私もそろそろ行くよ。ゆっくり休めよ、友人」
「はい……」
叶多の姿が扉の向こうに消えた。
◇◇◇
「桜ほのか!」
「あなたは……相模さん、でしたか」
「ああ、話がある」
「私はありません」
「いいから聞け。友人はちゃんと、償いの仕方を考えている」
「あの人に何ができるっていうんです?」
「[忘れないこと]だよ」
「……え?」
「お前が否定した[忘れないこと]だよ。それがあいつの出した答えだ。あいつはちゃんと罪の重さを理解した上で、この最も易しくない道を選んだ。桜なのはのために」
「それが……それが何だって言うんです!? 結局、なのちゃんのためだけじゃないですか!! いつもいつもあの人は、なのちゃんのことばかりっ!」
「ああ、そういうことだったのか」
「何がです?」
「お前よりも友人や、桜なのはの方が人間としてよっぽどましだったとわかった」
「なっ、私が、私が、なのちゃんより劣ってるっていうの!?」
「ああ。少なくとも、今のお前はな」
「そんなはずは……そんなはずは、ないわ!! あなたに何がわかるっていうの!? 何も知らないくせに!!」
「逃げたか。桜 ほのか、お前は私と同じ穴の狢さ。桜のことと向き合おうとしている友人よりも、友人に謝って逝った桜よりも……ずっと、独りよがりだ」