「よかったよ」
「…………」
「友人がちゃんと卓球覚えててさ」
「…………」
「おい友人?」
「なんだ?」
帰宅途中。俺が答えた途端、悠斗はげんなりした顔になった。
「なんだよ、その顔は」
「……ユージンだったのかよ……」
失礼なやつだ。[友人]に話していたときと雰囲気が変わる。
「悪かったな、俺で。いつもはこれくらいど切り替わんだよ。下校中の[お出まし]は久しぶりだったか、ハルト?」
「……全くだ。友人だと思って話していたのに……」
悠斗は俺よりも友人を贔屓している節がある。その割にいざというときは頼ってくるから困ったものだ。
「よかったじゃん、念願叶って」
「ん?」
「[友人]と卓球がしたかったんだろ? 俺に頼むことにならなくてよかったじゃねぇか」
「……わかってたのか」
普通は精神的なショックでできなくなったことができるまで、かなりのリハビリがいる。しかし、友人は一日で立ち直った。それは俺という友人にとっての無意識領域の存在が普段からストレスを代理発散しているからだろう。
「ま、昨日は自分で発散してたしな。桜の遺書で。それがなかったら、三島さんに[心一つで]と言われたくらいで立ち直れるわけねぇんだ」
「ああ、俺も三島先生から忠告受けてたから。もし今日だめだったら、お前に友人のふりしてもらおうと思ってた」
「それはだめだろう」
だめ、というか無理だ。[俺が俺であること]は[柊友人が二重人格であること]と同じくらい重要なことだ。友人のストレスを発散するためにいる俺は[ありのまま]であること──自然体でいることで友人のストレス発散の手助けをしているのだ。それが[友人]を演じるという不自然な行動を取るのは却って友人の負担になる。
「それこそ友人が間違って自殺したらどうすんだよ」
「……何はともあれ、立ち直ってよかったよ」
「そうだな。……んと、あれ? ってことは俺、家に帰ったらやることいっぱい?」
「宿題、炊事、洗濯……開かずの間からラケットを出す、か」
「ハルト、お前も手伝え」
「おい!」
◇◇◇
「あ、おはよう、相模さん」
「ん? 小山か……おはよう。何か用か?」
「柊くんって文芸部だよね?」
「ああ、そうだが」
「しばらく借りるから」
「おう……なあ、小山」
「何?」
「まさか友人を転部させたりはしないだろうな?」
「まっさか~! そこは柊くんの意思次第だよ」
「ん、そうか……」
◇◇◇
卓球は楽しかった。相変わらず、ラケットを持つ手は震えるけれど、それも日に日に気にならなくなってきた。
「柊くんのフォアハンドサーブ、エンドラインぎりぎりまで伸びるのね、すごーい」
小山先輩は僕の技を見るたび、すごいすごいと連発している。
「じゃ、次はバックハンド十本、見せてちょうだい」
そんな先輩を見ていると、桜に似ていると思う。桜もいつも僕の卓球を見て、すごいを連発していた。
僕はラケットを握り直し、ボールを軽く上げる。カット気味にラケットを倒してボールに当てる。ボールは手前側で一度弾み、相手側のネット際で再び弾む。そのボールを放置し、先輩は唸った。
「……もう一回」
大体同じ動作でもう一度サーブする。今度はボールがネットに引っ掛かった。
「うん、やっぱりね」
先輩は一つ頷くと、僕を真っ直ぐ見て言った。
「柊くん、ネット際に落とすサーブをやるならもう半歩手前。下がりすぎよ。あと、カットはもう少しゆるくていいから。ちょっとラケットを立てて打ってみて」
言われたとおりに動いてみる。今度はネットに当たることなくネット際に落ちた。
「ほら、できた」
そう言って笑いかくてきた顔が桜のそれと重なる。
「柊くんってば、バックハンドの返しは綺麗なのにサーブに変な癖がついてるんだもの。勿体ないよ」
言う言葉まで一緒だ。違うのは自分でやってみせることができるかできないかくらい。
この人の一挙手一投足はなんで、こんなにも桜に似ているのだろう。見ていると時折、胸が苦しくなる。
「この型をまずは覚えて。そしたら次はエンドライン狙いで。私は女子の方見てくるから」
そう言うと小山先輩は去って行った。入れ違いで悠斗がやってくる。
「またバックハンド突っ込まれたのか?」
「うん。……また、ね」
僕の一言に悠斗がはっとする。どうやら悠斗も小山先輩と桜を重ねているらしい。
「……友人も、先輩が桜に見えるのか?」
「時々ね」
「そうか」
小山先輩は容姿が桜に似ているわけじゃない。雰囲気、立ち居振る舞い、さっきのバックハンドのような着眼点……事細かな部分が、桜を彷彿とさせるのだ。容姿が似ていない分、顔を見たときに[桜じゃない]事実を突き付けられてはっとするのだ。
すこん、とサーブを打つ。ネット際狙いだったはずのボールはエンドラインまで伸びた。
「上手いのか下手なのか、よくわからないやつだな」
「狙ったとおりにいかないから、下手なんだよ。……同じ会話、したことあるね」
あの時も桜にバックハンドサーブを教えられていた。……桜の存在は未だ根強く僕たちの心の中に残っているのだ。
「半歩、起こす、打つ」
言いながらやると、今度はきちんとネット際に落ちた。同じように何度か繰り返す。覚えたと思ったところで、今度は黙ってやる。ボールの弾む音だけが響く。
「……お前、すごいよな」
悠斗が沈黙を破った。
「何が?」
「一度型を覚えたら、ほぼ型どおりに、同じ軌道をなぞるように打つ。たった十数回の練習でできるんだ。異常だよ」
「……そう」
「だから桜は、お前に思いのたけをぶつけたんだろうな」
悠斗の言葉に僕は手を止めた。
「どういうこと?」
聞き返すと、悠斗はどこか悲しげな笑みで答えた。
「知ってたか? 桜はお前のこと、好きだったんだぞ」
僕は言葉を失った。
桜は僕のことが好きだった? まさか。もしそうなら、桜を好きだった悠斗は……悠斗の思いは──
「桜に教えられたんだよ。恋愛相談でな。さっさと告白しちゃえば? って言ったんだ。お前は卓球上手いし、その技術にも、お前自身にも憧れてるのは丸わかりだったからな……でもあいつは[私、卓球が上手い人より卓球が好きな人がいいです]……だってさ。……卓球馬鹿だよ……」
それを聞いて思い至る。あの質問はそういう意味だったのか、と。
「柊くんは、卓球、好きじゃないの?」
「わかりづらいよ……」
苦笑いしながらサーブを打つ。失敗した。辺りがぼやけて見えないせいだ。
するり、とラケットが手から滑り落ちるのを感じた。
拾おうとして、そのままそこに崩れた。
◇◇◇
「ユージンくん、大丈夫かな……?」
「止めた方がいいのではないか? アラタ」
「そうは言ってもねぇ。小山さんの気持ちを汲むとね……それに、ユージンくんのためにも必要だって三島先生にも言われてるし。心配なら、カナタが声かけに行ったら?」
「……私的な理由で、頑張っているやつを邪魔することはできない」
「さっきと言ってること違うよ? ……全く、カナタは素直じゃないんだから」
◇◇◇
沈鬱な帰り道。日が暮れて薄暗くなり始めている。
「……ねぇ、悠斗」
「ん、何……?」
「小山先輩は本当に桜に似てるよね」
「ああ……行動も言葉も、本当に桜と似てるよ」
悠斗の横顔をちらりと見る。悠斗は遠くを見ていた。そこでふと訊いてみる。
「もしかしてお前、小山先輩のこと……」
「いいや」
悠斗は苦笑いしていた。
「小山部長を桜と比べるなんて、いくらなんでも失礼だろう。……それに、俺は今でも桜一筋だよ」
その笑顔がどこか寂しげに感じられた。
「……そんなんじゃ、一生独り身だぞ?」
冗談半分でそんなことを言ってみたけれど
「それならそれでいいさ」
そう真顔で答えられてしまった。
「そういうお前はどうなんだよ?」
意趣返しのつもりか、悠斗がおどけた調子で訊いてきた。
「どうって……別に」
「お前って、前からそんな感じだったよな。他のことには関心ないし、他の人にも関心ないし。桜とは別な意味で卓球馬鹿だったけどな」
「……そうだね」
以前は友達なんていなかった。母と叔父が自殺して、[自殺一家]と称され、避けられていた。それでひどいいじめに遭っていたから、僕はちょっとした人間不信に陥って、父と悠斗以外は信じられなくなっていた。中学生になって、遠くの学校に入ってから、悠斗に勧められて卓球を始め、それまでのことを忘れようとひたすら卓球だけに打ち込んだ。
卓球をやっている間は、楽しかったから。
「そんな調子だと、お前だって一生独り身ってことになっちまうぞ」
「僕はそれでいいんだ」
答えると、悠斗はふっと笑った。
「なら、お互い様だ」
「あ……」
釣られて少し笑った。上手く笑えたかどうかはわからないけれど。
久々に笑って語り合えた気がした。
「ただいま」
「おかえり、ユウト」
帰ると、珍しく親父が夕飯の仕度をして待っていた。夕飯、といっても、味噌汁と白米と肉じゃがといういつもどおりのメニューだ。親父は味噌汁と肉じゃがしか作れない。というか作らない。多分、それがお袋の得意料理で、唯一親父が教わった料理だからかもしれない。
「最近、学校楽しいか?」
「さあな。俺は、学校に行ってないから」
「……そうだったな。サイに聞こう」
親父は俺を[ユウト]、友人を[サイ]と呼ぶ。俺と友人は同じ人物だけれども違う存在であることをわかってはいるものの、時折俺たちを混同する。
親父は親父で[妻を失う]という傷を負っている。
それでも普通でいられるのは大人の精神力と元々の気丈な性格のためだろう。
「サイはまた卓球を始めたようだな」
テーブルにつきながら親父は言った。
「らしいな。ハルトから聞いた」
「ラケット握れるようになったんだな」
「そろそろ俺もお役御免かな」
「悲しいこと言うなよ。……そういえば、文芸部の方はどうなんだ?」
「知らん。学校での出来事はハルトからしか聞けないからな。あいつと俺は同じ体の中にあるけど、意識共同体じゃない。文芸部のやつには会ったこともないよ、俺は」
「……複雑だな」
「ん、まあね。……食おうぜ」
いただきます、と俺と親父は箸を取った。
「……部活はサイがサイで自分なりにやるだろうが、一応三年間一緒にやっていく人たちだろう? お前も挨拶ぐらいしておいたらどうだ?」
「文芸部の部員は友人以外はみんな三年だよ。今年卒業。直に部活も引退さ。……それに、俺の存在がばれて、友人がまたいじめに遭わないとも限らない。……相手は只者じゃないしな」
そう返してじゃがいもを口に放り込む。
[文芸部]の人間は只者じゃない。特に[相模叶多]というやつは異常だ。聞いてもいないのに、名前が俺の記憶にしっかりと残っている。よほどのことでないかぎり、俺と友人の記憶が繋がることなどありえないのに。
悠斗と話した桜がらみのことでさえ、俺はほとんど覚えていないのだ。ということはつまり、叶多という人物は友人の中では桜以上の存在となっているということだ。
[桜]という存在に縛られたことで生まれた俺にとって、桜を越える存在というのは非常に興味深い。それだけに、危険を感じる。
きっとこれは開けてはならないパンドラの箱だ。つついただけで友人に災いが降りかかるような。だから決して会ってはならない。
会いたいなんて、思ってはいけない。