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第五話

「よし、診断再開だ。ここは病理学の原則に立ち返ろう。病気の代表的な原因は大きく分けて八つある。すなわち先天異常、代謝異常、循環障害、免疫異常、炎症、腫瘍、感染症、心因性だ。そして患者の主訴は強いめまい、失神、吐き気、頭痛、手先のしびれ、軽い息苦しさ。さあ、症状に合う病気を挙げていけ。しらみ潰しにいくぞ」


 篠宮は石田の後ろに引っ込んだ。これで随分やりやすくなる。

 石田が早速、適当に思いついた症状を口に出した。


「まず循環障害を疑うなら――目眩といえば耳だ。メニエール病は?」


 平衡感覚を制御する内耳にリンパ液が溜まる病気がメニエール病だ。若い女性がめまいを起こした場合には、この病気を候補の一つとして考える。


「純音聴力検査も平衡機能検査も異常なし。ガドリニウム造影剤を用いたMRIスキャンでも、内耳へのリンパ液貯留は認められなかったとある」

「なら内耳奇形でもないな。脳や神経は? 脳梗塞や一過性脳虚血発作なら突然の失神の説明がつく」

「もしそうなら今ごろ彼女は病院だよ、脳動静脈奇形や脳動脈瘤もMRAMR造影検査の結果で否定できる」


 MRAはMRIを使った血管造影検査の一つだが、造影CT検査と違って造影剤は使わない。電磁波を使って脳の血管を立体的に描画し、異常を見つけることができる。


「若年性パーキンソン病やシャイ・ドレーガー症候群は?」

「家族に罹患者はいないし、歩行障害も排尿障害もない。MRIでも脳萎縮の兆候はない」

「じゃあ、肺はどうだろう? 稀だが、月経随伴性気胸ってのもある」

「胸部レントゲン撮影をしてる。肺塞栓症や気胸なら、最初に見た医者がすぐに気付くはずだ」

「じゃあ、貧血は? うちの学校の養護教諭は最初そう考えてた」


 貧血になると脳に酸素がうまく行き渡らず、急に立ち上がった時に起立性低血圧を引き起こす可能性があるからだ。


「上消化管および大腸内視鏡検査では腸管内出血の所見はない。血小板数、PTプロトロンビン時間APTT活性化部分トロンボプラスチン時間、フィブリノーゲン、FDPフィブリン・フィブリノーゲン分解産物の値も正常だ」

「出血傾向はなしか、内出血も起きてないだろう。出血を伴わない貧血の可能性はないか?」


 貧血にはいくつかの種類があるが、特に女性は月経出血を原因として鉄欠乏性貧血になりやすい。重度であれば失神を引き起こすこともある。


「赤血球数やヘモグロビン、フェリチンや鉄、ヘマトクリットもすべて正常値だ。鉄欠乏性貧血は除外できる」

「大球性貧血は?」

チアミンビタミンB1や葉酸も正常範囲内だ、ありえない」

「溶血性貧血の可能性は? DIC播種性血管内凝固症候群じゃなくても、鎌状赤血球症ならありうる」


 鎌状赤血球症は通常円盤型の赤血球が三日月形の異常赤血球に変形してしまう遺伝性の病気だ。この異常赤血球は通常の赤血球に比べて壊れやすく、うまく酸素を運べず貧血になることがあるのだ。

 一方でこの病気は、マラリアに対し一定の抵抗力を持たせてくれる。この病気に罹患しているのはアフリカ系の人間が殆どだ。アフリカでは地域によって人口の10%ほどが鎌状赤血球症を罹患しているとされている。本来生存に不利な変異が、マラリアという外界の環境のため生存に有利に働いているのである。


「なるほどな。で、いつの間に日本でマラリアが流行してた? 顕微鏡写真から破砕赤血球は見られないし、定量ヘモグロビン電気泳動検査でも異常はないからバツだ。循環障害はなしだな」

「うーん、じゃあ腫瘍はどうだろう? 腫瘍随伴症候群は失神を引き起こすことがある」


 腫瘍、すなわちガン細胞は人体にとって異物であり、免疫機構はがん細胞を殺すために抗体を大量生産する。この抗体が体内の無害な細胞を誤って攻撃することで起こるのが腫瘍随伴症候群だ。


「腫瘍マーカーはいずれも上昇していないし、目立った臓器に疑わしい影もない。影像から脳腫瘍や肺がん、副腎腫瘍も否定できる」

「それじゃ自己免疫疾患に行くか。MS多発性硬化症SLE全身性エリテマトーデス、あるいはギラン・バレー症候群?」

「抗核抗体は正常、MRIでは脱髄病変の所見はなく、運動神経伝導速度検査で筋力低下の兆候もない。可能性は否定できないが、初期なら鑑別は困難だ」


 自己免疫疾患は数が多く、どれも稀な疾患だ。その多くが進行初期では鑑別が難しいもので、とてもで俺たちの手に負えるものではない。


「じゃあ、もう少し簡単なところで行こうか。感染症は? 倒れたのは五時限目の授業だ、食中毒も考えないと。篠宮さん、当日の昼は何を食べたの?」

「購買でアンパンと牛乳を買いました」

「食中毒はありえない。腹痛や下痢の症状が出てない上に、回復が早すぎる。それに購買で買ったものなら、他にも食中毒で倒れてる生徒が出ていてもいいはずだ」

「だが、セリアック病や乳糖不耐症なら――」


 セリアック病は主に小麦に含まれるグルテン、乳糖不耐症は乳製品に含まれる乳糖をそれぞれ原因とした不耐症の一種だ。どちらも今まで出てきた疾患の中ではメジャーな病名だが、今回の場合は当てはまらないだろう。この二つの病気はどちらも吸収不良を引き起こすため、腹痛や低栄養、そしてひどく臭う下痢の症状が見られるからだ。


「俺は病気を挙げろ、と言ったんだ。というか、アンパンと牛乳? 今どきの女子高生の食事がそれか?」

「個人の自由だろ。僕もたまにある」

「生徒会の仕事で忙しい時は、だろ」

「なんで君が僕の食事内容を知ってるんだ?」


 そんなに不思議がるな。お前が俺にやってるのと同じく、綾乃に聞いたんだよ。


「私が好きなんです、いけませんか?」


 思わず目をぱちくりさせた。

 おい篠宮、お前マジか。アンパンと牛乳が好きなJKなんて変わってるな。


「意外だっただけだ。血液検査ではCRPC反応性蛋白も白血球数も増加してない。CPTプロカルシトニンも正常値だ。炎症も除外できる」

「だが、ウイルス感染症だとそれらの値が上がらない場合もあるだろ?」


 CRPのPはプロテインの略で、肝臓で産生される蛋白質の一種だ。細菌の細胞質膜に取り付き、マクロファージなどの貪食細胞を標的に誘導したり、水を細胞膜内に流入させて細菌を自壊させたりもする。CRPは炎症の発生に合わせて大量に産生されるため、急性炎症の経過をみる指標として多くの医療現場で利用されている。


 石田の言う通りウイルスには細菌のような細胞質膜がないので、CRPは大して上がらない場合がある。ただ、今回は違うだろう。


「白血球数は正常値だぞ。ありえない」

「白血球の消費量が生産量を上回ってるのかも。神経性感染症って可能性は?」

「東アジアで代表的なのは日本脳炎だが、ワクチンは――」


 俺は母子手帳の予防接種記録乱を確認する


「打ってます」

「篠の言う通り、二回とも期間内に打ってる」

「篠宮です」

「ああそうか。とにかく海外への渡航履歴もない、除外すべきだ」

「じゃあエプスタイン・バーウイルスなら?」

「伝染性単核球症か? 発熱、咽頭炎、リンパ節腫脹しゅちょうのいずれの症状もない。腰椎穿刺ようついせんしをして脳脊髄液を検査にかけてるが、何も出てない」

「なら感染症もありえないか。代謝異常は――乳糖不耐症は除外したが、他になにかあるのか?」


 おいおい、何いってんだ。まだ代表的な失神の原因が残ってるじゃないか。


「ああ、あるぞ。篠、アルコールやドラッグを飲んだことは?」

「篠宮です。あの私、お酒なんて飲んでません。薬だって、飲んでも風邪薬ぐらいです」

「って、言ってるが。どうなんです、神谷センセ?」


 石田よ、困った顔でこっちを見るな。これも代表的な病因だろ。

 たとえ患者が赤ん坊でも、酒を飲んでる可能性はあるんだぞ。


「ただの確認だ。急性薬物中毒やアルコール離脱、それに脱水症は意識消失の典型的な原因となる」

「でも信じてないんだろ。飲んだなんて言う患者はいないからな。それで検査は?」

「薬物検査はすべてシロだ。LFT肝機能検査、尿素窒素、クレアチニンも正常。腎臓や肝臓に問題はなく、脱水症でもない」

「当たり前です」

「ハハ、怒らせたな」

「うるさい、真面目にやれ」


 石田、ニヤつくな。調子に乗ってきたのか、俺より不真面目じゃないのか、こいつ。


「じゃあ、甲状腺は? バセドウ病甲状腺機能亢進症なら説明がつく」

TSH甲状腺刺激ホルモンFT4遊離サイロキシンFT3フリートリヨードサイロニンのいずれも異常なしだ。違うな」

「副腎はどうだ? これまでの検査からして可能性は低いが、アジソン病副腎皮質機能低下症ってのは?」

「血清コルチゾールも血清ナトリウムも正常値。ありえない」

「じゃあ食後低血圧ってのもだめか? 糖尿病患者にはよくあるが」

「血糖値は正常範囲内だ。……摂食障害の線も消えるな」


 ぎょっとした目で、篠宮がこちらを睨んできた。


「拒食症を疑ってたんですか?」

「君の体型ではありえないと思うが、一応な」

「自慢じゃないですが、自分のスタイルには自信があります」

「それはよかった」


 この女、いつのまにか会話に入る自信を取り戻してきやがった。

 やりにくいったらありゃしない。


「あとは……若い女性ならパニック発作や過換気症候群って可能性もある」

「テタニー症状や頻呼吸の記載はカルテにない。動脈血ガス分析でも呼吸性アルカローシスは認められなかった」


 生物には酸素が必要だが、二酸化炭素もある程度はないと困る。精神的ストレスが原因となって過呼吸が引き起こされると、体内の二酸化炭素濃度が低くなって血液がアルカリ性に傾くアルカローシスという現象が起きるのだ。これが過換気症候群で、呼吸性アルカローシスは手足のしびれや呼吸困難、時には失神すら招く。


「ちなみに五限目は何の授業だった?」

「古典です。退屈でした」

「じゃあ両方ありえないな」

「おいおい、仮にも診断なのに、そんな適当でいいのか?」

「診断じゃなくて予想だ。なあ石田、お前は古典の授業で恐怖を感じるのか? 俺は眠くてしょうがなかったぞ」

「数学なら満足だったのか? 微積分が怖いって言いたいんだろ」

「いや、そこは体育だろ」


 石田が狐につままれたような顔をしてこちらを見ている。

 こいつをイジるのも楽しいが、程々にしておかないとな。


「視点を変えよう。十代の女性によくある疾患は?」

「……月経前症候群や月経前不快気分障害?」


 これが当たっているかを推測で当てることは出来ない。二人して篠宮の顔をまじまじと見つめた。


「……あの、これ答えなきゃダメなんですか?」

「医学的セクハラは嫌いか?」

「血液検査ではわからないんですか?」


 おお、今彼女にドン引きされているのが分かるぞ。


「すまない。体内のホルモンレベルはわかるんだが、それだけ分かっても意味がないんだ。人によって日ごろのホルモン量は違うものだからね」

「……生理は軽い方です。生理不順になったこともありません」

「ふむ。体内のホルモンレベルは異常値ではないし、急性症状とは考えにくいな。そういえば神谷、君の妊娠中毒症という見解はどうなった?」

「にっ――」

「尿蛋白は正常だった、つまり誤診だ」

「私はまだ処女です!」


 恥じらいと言うよりは、単純に怒っているようだ。当たり前か。


「篠宮さん、それは言わなくていいよ……じゃあ、純粋自律神経失調からくる起立性失神とか?」

「起立試験の結果は陰性だ」

「なら、残りは反射性失神しかない」

「なんでもありだな。たぶん君のところの病院の医師も、同じように考えた。だがチルト試験は陰性だ」

「典型的な反射性失神の症例でも、チルト試験の陽性率は30%。薬剤を用いて負荷をかけても60%しかない。検査結果が陰性だからといって、除外はできないよ」


 石田の主張は間違いではない。ERに運ばれてくる意識喪失患者の四割は反射性失神であり、失神患者に限ればその六割もが反射性失神とされている。危険な病気が隠れていがちな失神症状とはいえ、その全てに危ない病気が隠れているわけではないのだ。


「……問題が内じゃなく、外にあるとしたら?」

「ひょっとして環境要因を疑ってるのか?」

「考えられるのは何だ?」

「代表的なのは紫外線、放射線、異臭や騒音、農薬や有機溶剤なんかの化学物質、重金属中毒に……あるいはアレルギー反応だが」

「他の人間が倒れていないところを見るに、あり得るとしたらアレルギー反応だ。さっき古典の授業だと言ってたな? 篠、一年の古典の担当は?」

「篠宮――じゃなくて、田中先生です」


 その名前を聞いて石田は思い出したかのように、急な大声を出した。


「――彼はヘビースモーカーだ! いつも右手の人差し指にヤニの痕が残ってる。タバコの煙でアレルギー反応が起きたのかもしれない」

「さて、それはどうかな。篠宮、君の席はどこだ?」

「しの……あれ、もういいんですか」

「もう飽きた。さっさと席順を教えてくれ」

「はあ。教室の最後列、いちばん窓側の席です」

「授業中に吸ってたならともかく、服に残った残留物程度で失神まで至るとは考えにくいな。座っている席の近くに植物はあったか?」


 うつむき加減でしばらく考え込む仕草をしたあと、篠宮は口を開いた。


「植物? そんなものは――いえ、そういえば、窓の外に菜園がありますね。そこに何か植えられてます」

「それって、料理研究部が育ててるやつか」


 石田が口を挟んだ。そんなことまで覚えてるのか。


「ハーブ? 品種はわかるか?」

「確かソレルだ、オイルの香り付けに使うらしい。だが、何のために訊く?」


 椅子から立ち上がり、キッチンの方へと歩く。遠くからでも聞こえるよう、互いに大きな声で喋った。


「ソレルは蕎麦と同じ、タデ科の草本だ。蕎麦アレルギーの人間にとっては、アナフィラキシーを誘発するアレルゲンになりうる」

「でも蕎麦でアレルギーなんて、起こしたことありません」

「最後に食べたのは?」

「……覚えてませんけど、子供の頃に少しだけ。あの! 何かやるつもりなんですか?」


 棚から既製品の蕎麦を取り出し、鍋に入れて茹で始めた。


「なに、蕎麦湯を使ってプリックテストをするだけだ。素人でもできる簡単な試験だよ」


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