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第四話

 翌日の昼頃、石田は再びやってきた。

診療情報の詰め込まれた段ボール箱が部屋の真ん中の机に置かれると同時に、ドスンと重たい音がした。


「これで全部か?」

「ああ」


 一週間分にしては多いだろ? そう言って石田は額の汗を拭った。


「外は雨なのに、随分汗をかいてるな」

「まったく参るよ、外の蒸し暑いことといったら」


 壁にかかった乾湿計に目をやると、湿度は90%を指していた。


「……君はエアコンの効いた部屋の中にいるから気づかんだろうが、世間はとっくに梅雨入りしてるからね」


 そう言われると、外の雨音がいつもより長く感じる。


「そういえばそんな時期か。にしても、一週間でこれだけの検査を?」

「原因がわからなかったからな、低リスクとはいえ、できるだけの検査をしたよ。結果はかんばしいものじゃなかったが」

「診療情報の提供に、たった一日で同意を得たのか?」

「彼女の保護者は捕まえられなかった。出張で北海道にいるんだ」

「じゃあ、この情報は?」


 なんだか嫌な予感がする。その予感は的中した。


「はじめまして、神谷先輩。篠宮千夏です」


 廊下からひょっこり出てきたのは、写真で見た例の彼女だった。

 冗談じゃない、俺は石田に悪態をついた。


「おい、なぜ彼女を連れてきた?」

「駄目だったのか?」

「周囲に人がいると疲れるんだ」

「保護者の代わりに同意してもらったんだ。少しぐらい我慢しろ。をしたいなら、患者と話ぐらいするんだな」

「未成年だろ!」


 石田は返事を返さなかった。卑怯なやつだ。

 篠宮が嫌いなわけでは無い。人見知りなわけでもない。だが、目の前に人間がいると精神が擦り減るのだ。

 篠宮の顔を覗き込むと、彼女は心配そうな表情を浮かべていた。


「あの、私、病気なんですか」

「ああ、ことを願ってる」


 篠宮はその返事をいぶかしんだようだったが、石田は肩をすくめて応じた。


「こういうやつなんだ」


 篠宮は首を傾げた後、得心がいったように頷いた。


「それで、主訴だが」

「主訴ってなんです?」


 いきなり話の腰を折られ、思わず崩れ落ちそうになった。この調子で進むのか? すかさず石田がフォローを入れた。


「主訴っていうのは、患者の人が訴える症状のことだよ」

「症状とは違うんですか?」

「それは――」


 我慢ならず、俺は石田の話に大声で介入した。


「俺達の身体は実によく出来ている。俺達は動けと思って心臓を動かしてるわけじゃないし、働けと思って免疫組織を働かせてるわけじゃない。俺達の意識に関係なく、身体は定常の状態を保つため勝手に働くんだ。だがそれは逆のことも意味している。身体のどこかでトラブルがあっても、痛みや苦しみがなければ俺達はそのトラブルを知ることができない。だから主訴と症状は厳密に区別される。主訴は患者が知っていること、症状は実際に身体で起きていることだ」

「私の身体で何かが起きてると?」

「さあな、君の主訴からそれを考えるんだ。今までに大きな病気をしたことは?」

「ありません」

「家族で大きな病気をした人は?」

「ありません。去年、曽祖父が心筋梗塞で亡くなりました」

「齢は?」

「亡くなったときですか? 九十八歳でした」

「寿命だな」


 篠宮はむっとした顔でこちらを睨みつけてきた。

 どうやら、曽祖父との関係は悪くなかったらしい。


「それで病気の原因だが――」

「待てよ、家族で心筋梗塞のために亡くなった患者がいるなら、不整脈を考えてまず心原性失神を除外するべきだろ。失神の中では最も予後が悪い」


 今度はお前か、石田。


「お前は九十八で死んだの死因を気にしてるのか? その年になれば身体の隅から隅までボロボロだ、そりゃあどこかでガタが来るさ。それにあいにく、ここはER救急外来じゃない。心原性失神を見逃さないのは救急医療の原則だが、それらの検査はとっくに病院側が済ませてる」


 胸部CT、MRI・MRA、ホルター心電図、加算平均心電図、負荷心電図の資料を机に放り投げた。心臓を原因とする失神――心原性失神を引き起こす器質的心疾患や冠動脈疾患、早期興奮症候群、QT延長症候群、心筋症や心膜炎、洞不全症候群、心アミロイドーシスなどの病気は、とうの昔に除外されていた。


 不意に、篠宮が口を開いた。


「話には聞いてましたけど、変な人ですね?」

「『変な人』? 俺のことをそういう風に呼ぶ人間は珍しい」

「ホントに? 他の人にはなんて言われるんですか?」

「クソ野郎、って」


 篠宮はああ、と納得げな表情を浮かべた。


「そっちのほうが適切かも」


 随分率直な子だ。


「お二方は医学の勉強をしてるんですか?」

「勉強ってほどじゃない」

「石田先輩は分かります。総合病院の跡取り息子なんですよね。将来は医学部に行ってお医者さんになり、家を継ぐって。でも神谷先輩は違いますよね?」


 いや、将来医学部に行くからって、医学の知識があるとは限らないと思うが……俺はともかく、石田の知識量も大概だろう。


「君は俺のことについてどの程度知ってる?」

「作家さんなんですよね。ニュースで名前を聞いたことがありますから、私でも名前は知ってます。でも作家と医者は違います」

「そうだ、だがその二つには共通点がある」

「どんな?」

「どちらも人をよく観察するが、人に入れ込んで絆されたりはしないってことだ」

「どういう意味です?」

「優れた作家は自分が悲しいと思っても、その悲しみをそのまま言葉にはしない。悲しみがどこから生まれたのかを分析し、そして読者にも同じ感情を感染させるために何が必要を考えて描写する。医者も同じ。苦しんでいる病人を見て、何が病人を苦しめているのかを分析する。そして病気を突き止め、適切な治療法を選択する」

「でも『医は仁術なり』って言葉がありますよ?」

「人の心を癒やすのは医者の仕事じゃない。患者の過去についての知識が治療の役に立つことはあるが、医者は患者の未来に責任を負ってなどくれないし、負うべきでもない。そして未来に責任を負わなければ、口先での癒やしはただの無責任だ」

「まるで医者の立場に立った物言いをするんですね?」

「患者としての実体験だ」


 その言葉に篠宮の表情が少し崩れて、焦りを含んだものへと変わる。

 ちらと石田を見ると、バツの悪そうな表情を浮かべていた。

 あいつ、肝心なことを教えていなかったな。


「すまない。君の了解を得てからのほうがいいかと思って、伝えてなかったんだ」

「俺は気にしないが、彼女は違うかもしれない。俺が統合失調症だと知っていたら、カルテを見せる気にならなかったかもな」

「統合失調症なんですか?」


 篠宮は顔を顰めた。まったく、これが面倒だから人には会いたくないんだ。


「患者は全員、精神病院に入っているとでも思ってたか? それとも、統合失調症の患者とはマトモな会話など出来ないと思ってたか?」

「僕が悪いんだ。最初に君に伝えるべきだった。彼の知的レベルに問題はない。それどころか彼はおそらく、日本にいるすべての高校生の中で最も頭が切れる人間だ。誇張抜きで」

「信頼できるんですか?」

「その問いは間違っている。信頼するかだ。病院の医者は、君の病気に診断を下した。反射性失神。なるほど、どんなヤブ医者でも同じ病名をつけられる」

「その診断が当たってるかも」

ならこれを持って帰ればいい。俺は医師免許を持ってないし、診断はできない。ただ単に、無責任な予想をするだけだからな」


 持ち帰れるかは心配するな、そこの石田先輩がちゃんと片付けてくれる。


 そうは言ったが、俺は彼女がことを確信していた。高校生のお医者さんごっこなんていうイカれたママゴトに自分から乗ってくる人間は、よほどの物好きか、あるいはよほど切羽詰まっているかのどちらかでしかない。


「……分かりました」


 彼女は手元にあったカルテを俺の方へと渡してきた。


「俺が医者じゃなくてよかったな、セカンドオピニオン料金は不要だ」


 石田はやれやれと言った様子で、肩をすくめた。

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