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第三話

「さて、俺がプライベートな質問に答えたんだ、今度は逆質問と行こうか?」

「答えられる質問ならね」

「お前がよろしくやってる、一年の図書委員の名前は?」


 石田は怪訝な顔をした。


「なぜ分かるんだ、君は授業に出てもないのに」

「お前は自分というものがないからな、すぐ相手に影響される。それも、自分でも気づかないうちにな。健康そのものの高校生男子が、この時期になって急にリップクリームをつけ始めると思うか?」


 そう言って俺は彼の唇を指差した。石田は背筋を伸ばし、気まずそうに上唇を指で拭った。


「男がリップクリームを付けちゃ駄目か?」

「付けるかどうかは個人の自由だが、普段のお前ならなら絶対に付けんね。だいたい今みたいな湿っぽい時期に塗っても逆効果だということは、医者の息子であるお前ならよく分かっているだろう」


 ワセリンが皮膚の新陳代謝を妨げ、かえって肌荒れを引き起こす原因になるからだ。


「いや、実はそうなんだ。ちょうどいま気になってる子がいるんだが、プレゼントで渡されてね。付けないわけにもいかないし」

「お前のことだ、女子生徒からプレゼントをもらうのは特別なことじゃないだろ」

「そりゃそうだが、好きな相手からのは別だ」

「で、その相手ってのは?」

「知ってるんじゃないのか? 彼女について知ってるから、あんなことを言ったんだろ?」

「いいや知らん。カマをかけただけだ」


 俺の言葉に、石田の顔を一抹惑乱したような色がかすめた。


「僕を試したのか! ……いや待て、それならどうして彼女が一年だと分かったんだ?」

「最近になって急に付け始めたから、二年や三年の可能性は低いと思ったのさ。なら、四月に新しく入ってきた一年って可能性がいちばん高い」

「じゃあ、図書委員だってのは?」

「図書委員の選出は全委員会の中で一番早い。入学式後すぐのオリエンテーションで決まるからな。同じく早いのは保健委員もそうだが、学校のホームページを見る限り、生徒会の業務で保健委員と接点を持つ機会はないだろう。そうすると、今月の初めにあった選書委員会で知り合ったと考えるのが自然だ」


 選書委員会は学校図書室に新しく入れる本を決める会議で、学校司書と生徒会役員、さらに図書委員が出席する。

 石田の口から溜息が出かかり、降参という様子で大げさに手を広げた。


「ハ、よくもまあ……」

「ただの当て推量だ、そこまで驚くようなことじゃない。で、誰だ?」

「そんな事を言って、またからかうつもりなんだろ」

「もう三度振られてるんだ、別にいいじゃないか」


 俺の発したこの放言には、石田も思わず語気を強めた様子だった。


「よくない! 元はと言えば、以前の三度だって君のせいで振られたようなもんだ。君が彼女たちにあんな事を言うから」

女じゃなかったから、それを正直に言っただけだ。一人はお前相手に二股をかけ、一人は家庭に問題があり、もう一人はシンデレラ症候群コンプレックス。どのみち長続きはしなかった」

「だからなんだっていうんだ? あのな、僕らは高校生だ。高校生恋愛をしてみたいと思うのはおかしいことか? 特に僕は大人になったらもう少し、現実的な恋愛ってやつをしなきゃいけなくなる。だから高校生の間に情熱的な恋愛ってやつを体験してみたいんだ。そんな機会は今しかないだろ」

「お前の追いかけてるものはだよ。それも、どこにも本物のないようなニセモノだ。妥協を積み重ねた平凡な恋愛、じつに結構なことじゃないか。情熱的な恋愛だなんて、どうしてそんな悪魔的なものを追いかける? 人が恋愛に対して情熱的になるのは年齢のせいじゃないし、ましてや恋愛が本質的に素晴らしいものだからでもない」

「ああ、君はいつも言ってるものな。確かに恋のドキドキはドパミンの産物だし、僕はドパミンに狂わされてるのさ。僕も君みたいにリスペリドン抗精神病薬を飲んだほうがいいかも。ウケるね」

「飲むんだったらハロペリドールの方が良い、ドパミンD2D4受容体を遮断する働きが、リスペリドンより優れてるってデータがある」

「君には皮肉も通じないのか?」

「当てこすった言い方はよせと言ってるんだ。二十歳はたちの誕生日を迎えた瞬間に、その人間の性格が変わるわけじゃないだろう。結婚しようが家庭を持とうが、ティーン並みの恋愛しかできない人間なんて山ほどいる」

「そういう人間はじゃないだろう!」


 俺はその言葉にニヤリと笑った。


「な、そうだろう? お前は情熱的な恋愛なんて望んじゃいないんだよ、むしろこれ以上ないぐらいに、お前はまともな恋愛を望んでるんだ。なぜって、お前は恋に溺れるにはあまりにイイヤツすぎるからさ」


 それを聞いた石田は、酷く落胆したような様子で言った。


「まったく君ってやつは、たいした親友だよ」

「それで結局、誰なんだ。その生徒の名前は?」

「名前を言ったって、君に分かるのか?」

「お前をからかう時、いちいち女学生Aと呼ぶのは面倒だ」

「口の減らないやつだな。一年の篠宮千夏って子だよ」

「美人なのか?」

「君が他人にそこまで興味を示すなんて珍しいんじゃないか?」

「質問に答えろよ。ただの女に興味はないが、お前が好いてる女には興味がある」

「しょうがないな、聞いて驚くなよ。これがすっごい美人なんだ。連絡先も交換してある。写真を見るか?」


 こちらが頼んでもないのに、石田はスマートフォンに保存された写真を見せてきた。なるほど、が篠宮千夏か。ひと目見てけばけばしいところの全然ない、落ち着いた雰囲気の女子だった。落ち着いているといっても、決して陰気や内気というのではない。むしろ力強い線の強さが表現しているのは健康的な活力であり、写真からでも女性のもつ自然な華やかさが感じとれた。


 その肌は輝くようには白くなく、言われてようやくそれと気づくような何気ない白だった。また肩まで伸びた髪は黒より深い藍色で、髪を漉くのに苦労なさそうな絹のような滑らかさは、彼女の髪質の優れていることを示していた。あまり背は高くなく、筋肉質でもないが太ってもいない。その肉付きから察するに運動はそれほど得意ではないのだろうが、かといって出不精なわけでもないのだろう。爪はやすりを使って切りそろえられていて発色も自然であり、歯並びが良いことも合わせて考えると、彼女の育ちの良さが見て伺えた。


「お前が好きそうな子だ」

「君は嫌いか?」

「身体は魅力的だがね」

「嘘をつくなよ。いままでの僕の好みと違うから、意外だったんだろ。むしろ君のほうが好きそうだ」


 思わず見惚れたことを、否定はしない。


「そういえば彼女、トマス・マンの『ファウスト博士』を何度も読み返してるって言ってたな」

「高校生でマンを? 変わってるな」

「嘘だと思ってるのか? 確かにマイナーではあるが、君だって読んでるだろ」

「ジョイスの書いた『ユリシーズ』は有名な作品だが、実際に読んだことがある人間はひと握りだ。どんな本でも、それを読めるようになる時期ってのがある。クイズ番組じゃないんだから、早ければいいってもんじゃない。ふつうの高校生の精神で理解できるのはヘッセが限度だ」


 俺が『ファウスト博士』を本当の意味で読めるようになったのは、それを初めて読んでから数年後のことであり、また音楽家としての才能がある主人公アドリアン・レーヴェルキューンをあえて自分と混同して読むことにしたからだ。それができるのは、俺の作家としての経験と無関係ではない。


「……それでももし彼女がマンを読んだっていうなら、それは本に書いてある字面だけをさらって読んだ気になってるか、あるいは読んだことはないが君のために話を合わせてるか、そのどちらかだろう」

「相変わらずひねくれた物の見方だな。いちいちケチをつけないで、人をもっと素直に見れないのか?」

「お前が相手の女に幻滅するところを横で三度も見ていれば、自然とそうなる」


 石田は突っ込むのに疲れたのか、今度は何も言わなかった。


「で、その彼女だが。この間、五時限目の授業中に失神して運ばれたんだ。うちの病院に」

「救急車が来てたのか?」

「気づかなかったのか? すぐそこでサイレンの音が鳴ってただろう」

「……昼間は寝てることが多いからな」

「容態は大して悪くない、すぐに意識は戻ったからな。本人は授業中に気分が悪くなったと言ってる。だがそれでも倒れた時に頭を打ったから、検査のために一週間入院してもらっただけだ。幸い検査ではこれといった異常も見つからなかったし、それほど心配する必要はないだろう。今日退院したから、明日からまた来るはずさ」

「ちょっと待て、突然倒れたのに異常が見つからなかったのか?」

「まさか君は彼女が教室で一回倒れただけで、脳生検までしろっていうんじゃないだろうね? もちろんできる限りの検査はしたが、異常はなかったよ」


 石田の一族が経営する私立南野病院は、南野地域全体の医療を担う中核病院だ。専門医の数も検査機器の数も、そこらの町医者とは比較にならない。それでも異常が見つからずに退院させたということは、医者たちは倒れた原因が命に関わるものではないと判断したのだろう。


 実に面白そうじゃないか。


「なら、俺が調べよう」

「そういうと思ってたよ。だが、君好みの謎じゃないかもしれないぞ?」


 原因の分からない症状は、医学的には『不定愁訴ふていしゅうそ』あるいは『特発性とくはつせい疾患しっかん』として扱われる。医学部で学ぶ体系的な基礎医学はあくまで身体の定常的な働き、舞台で言うところの台本に過ぎず、実際の患者に接する臨床医学ではこの台本が破綻した状態を扱う。このためトラブルはつきもので、個人差や環境的な要因、あるいは検査に係る患者負担の大きさや時間的な余裕の無さなどの様々な事情から、最終的な病気の診断を必ずしも下せない場合があるのだ。


「君の病院の専門医たちが白旗を上げたんだ、面白いに決まってるだろ?」

「それはそうだが、大した病気じゃないかも。彼女の話からすると、おそらく原因は重度の目眩めまいだ。若い女性が倒れるほどの目眩を起こす原因は、それこそ山のようにある。例えば脱水とか、貧血とか」

「ああ、一過性いっかせい脳虚血のうきょけつ発作ほっさって可能性もある。一時間以内の意識喪失ならな」

「君はひづめの音を聞いてだと思うタイプか? それよりは単なる寝不足や自律神経失調、血管迷走神経性失神や月経異常なんかのほうがはるかに……」

「ありえそうだって? 高校生のくせに医学生みたいなことを言うんじゃない」

「君だって医者でもなんでもないだろ。だいいち、シマウマの前にウマを疑うのは臨床医学の鉄則だ」


『背後で蹄の音がしても、それがシマウマだとは限らない』。


 医者なら誰もが知っており、医学部の一年生が授業の最初に教わる格言だ。医師が日常的に扱う症例の殆どは平凡な病気――すなわちウマであり、だからこそ発生率の少ない病気――シマウマを最初に疑うべきではない、というありがたいお言葉である。


「じゃあ俺もお言葉に従うとしよう、妊娠中毒症だ。発作性の血圧上昇で失神が起きたと考えれば、目眩の説明はつく」

「妊娠高血圧症のことか? あいにくだが、彼女に妊娠の兆候はなかった」

「遅発型の妊娠中毒症は産褥期さんじょくき、つまり産後六週間以内に現れることがあるんだよ。既に子宮内に胎児たいじはいないから、身体検査でも見逃されやすい」


 その言葉に、石田は今日いちばんの渋面じゅうめんを作ってみせた。


「知らなかったのか? お前がお人好しなのは結構だが、人は嘘をつくものだ。特にこういうデリケートな問題についてはな。それともティーンの妊娠は、若い女性の一過性脳虚血発作より珍しいか?」

「だとしても、君の最初の診断はありえない。倒れた時に頭を打っていたから、病院に運び込まれた時に頭部CTやMRI撮影をしたはずだ。一過性脳虚血発作――TIAの兆候があるなら、その時に見つけてる」

「だろうな。だが結局、原因はわからなかったんだろう?」


 ウマに比べて、『シマウマ』は確かに少ない。だが少ないからといって、存在しないわけではないのだ。ウマしか知らない人間に、シマウマを想像することはできない。稀な疾患だからといって診断が遅れても、患者にとっては何の慰めにもならないのだ。


 それを突かれると弱いようで、石田は苦虫を噛み潰したような顔をした。


「否定はしないよ。だがこれ以上詳しく調べるつもりなら、彼女の同意を取りつけるんだな。言っておくが、僕は診療情報を横流ししたりなんかしないぞ。僕も詳しいことは彼女に直接聞いたんだから」

「おいおい、お前はこの期に及んでヒポクラテスの誓いを守るつもりか? インフォームド・コンセントを不要と説き、尊厳死を否定し、中絶を禁止してる古文書だぞ?」

「患者のプライバシーを守ろうとするのが僕自身の信念によるものだって考えは、君にはないのか?」

「いいや、それでも同意はお前が取れ」

「なぜ?」

「私生活に介入されることを嫌がるのに、俺にここまで教えたんだ。お前こそなにかあるんだろ? つまり……例えば、ここまでのことは全部、俺を外に出すための芝居であるとかな」


 石田はしばし硬直した様子で、顔には驚愕の色が出ていた。


「バレてたのか」

「始めからな。文句も言わず買い出しに行ってくれたから、何か魂胆があると思ってたよ。それにお前の性格からして、もし本気で気になってる相手なら、そこまで冷静ではいられないはずだ」

「言っとくが、過去の件については本音だからな」

「分かってるよ。お前は良くも悪くもだ。今回の件、嘘を二段構えにするところからみるに、どうせ綾乃の差し金だろう」

「君のことが心配で相談したんだ。こうやって気兼ねなく話せる友人が僕だけっていうのは、どう考えたって健全じゃないだろう」


 石田といい綾乃といい、相変わらずおせっかいを焼きたがる。

 いつの間にか世間では、友人が少ない人間を放っておいてはいけないという法律でもできたのだろうか。


「ところで綾乃は、それ以外になにか言ってたか?」

「言うことを聞いてもらうために、期待をかけるふりをしてみろと。ついでに何かをやって、罪悪感を持たせればいいとも言ってた。僕はそれは、君に対してはうまくいかないんじゃないかと思ったが」

「いかにもあいつのやりそうなことだ」と俺はこぼした。「姉貴に悪い影響を受けてるな」

「そうかもしれない。楓さんなら、もっとうまくやるだろう」


 姉貴は嘘をついて人を操ることに長けた人物だったが、綾乃は違う。あいつには嘘をつく才能がないのだ。姉貴が嘘を付くのは自分自身の利益のためだし、嘘をついた結果何が起ころうと、姉は責任も罪悪感も感じないだろう。だが綾乃は人のために嘘を付くし、その結果何が起きるかを常に気にしてしまう。

 ようは石田と同じく、綾乃も根本的なところで『イイヤツ』なのだ。

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