わずかに三分の間のことだった。旧校舎の窓から、水平線の向こうに沈みかける夕日が見えた。水平線に沈みかける夕日が海と市街地を染め上げ、黄昏時を告げているのだ。海抜三百メートルにある
強い西日は海面に対して浅く反射し、一直線に筆山の方へと向かって伸びているのが見えた。市街に広がる黒い影を切り裂いて進む反射光線は陽が沈むとともに弱まり、とうとう影の中に立ち消えてしまう。にべもなく言えばただの自然現象に過ぎないその光景を、どういうわけか俺は無視できなかった。
「おい、買ってきたぞ」
横開きの扉がガラガラと開く音がした。両手に大きなスーパー袋を抱え、見知った顔が入ってくる。彼は手近な棚に袋を乗せ、レシートと共にお釣りを持ってきた。
「ところで、エコバッグは使わなくてよかったのか? 二十円余計に支払うことになったぞ」
直前に受けたいかなる感動も、現実的な金勘定の前では無力だ。俺は些細な不満も表情に出さないよう努力した。買い出しを頼んだのは俺なのだから。
「いや、いいんだ。この店の大きいポリ袋は特別生地が厚いからな。一枚十円でも高いわけじゃない、他にも使い道がある」
その言葉に石田は小さく頷いて、同意を示したようだった。自分の財布から持ち出したわけでもないのに、こういう几帳面なところは昔と変わらない。
そこで俺は久しぶりに、真正面から石田の顔を見た事に気づいた。本名は
ところでこの男は、すすんで筆山高校の生徒会長になった、俺から見れば変わり者でもあった。体の良い雑用係でしかない生徒会役員に立候補するなど、俺から見ればマゾかバカとしか思えない。ところがこの男はそういう仕事を天職にしていて、困っている人間を見ると放っておけない損な性質を持っていた。世間ではこういう種類の人間のことを指して聖人というらしい。生まれてこのかたユニコーンは見たことがないが、聖人は確かにここにいた。
そして、俺は聖人石田のその損な性質を利用させてもらっている。今回の買い物もその一種で、先ほどまでここから一キロ離れたスーパーに買い出しに行ってもらったのだ。
「コーヒーいるか?」
「いや、いいよ。暗くなってきたし、そろそろ帰らないと」
駄賃の一つも求めないところは、この男の欠点の一つかもしれない。過ぎたるはなお及ばざるがごとしという論語の言葉は正しく、無私の精神も行き過ぎれば厄介なものだ。知らず知らずのうちに周囲に罪悪感を植え付けてしまい、そのせいでこれまでに三人の彼女を失った。「自分には釣り合わない、もっといい人がいる」というのは彼が聞き慣れた定番の別れ文句だが、ともかく聖人には苦労がつきものだ。
「少々暗くなったって別に困らんだろう、男子なんだから。少しゆっくりしてけよ。お前の親も一日ぐらいなら怒らんさ」
時刻は夜の七時を回っていた。初夏とはいえ高校生が街を出歩くには、少々遅い時刻かもしれない。だからこそ、俺はむしろ石田を思いやって彼をここに引き止めることにした。聖人の生き方は人間には不可能で、石田も心のどこかに必ずストレスを溜め込んでいるはずだ。時にはそれを俺のような人間相手に表に出す機会があってもいいじゃないか。
「でも、遅くまでいたら怒られないかな」
「高校の警備システムを気にしてるのか? 心配するな、どこが穴かは知ってるよ」
「それはそれでまずいんじゃないか」
発言の内容こそ品行方正だったが、石田の声は妙に明るくなったように聞こえた。
旧校舎は二年前に起きた失火の影響で一部が焼失したが、大部分は今でも立ち入り可能だ。とはいえ、新校舎からは離れた場所にあるこの旧校舎に進んで立ち入る人間は多くない。失火前は文科系部活動の部活棟として使われていたらしいが、今ではそれらも他の場所に移転してしまっている。今この校舎を使っているのは、俺が唯一の部員である<
「にしても、本当にここに住んでるなんてね。快適なのか?」
「ここに越してきたばかりの頃は、至るところにすきま風が通ってたよ。その穴はぜんぶ、造作材とモルタルで塞いだんだ。今はまあまあの快適さだな、悪くない」
立ち上がってキッチンシンクに向かいながら、俺は石田に説明した。かつて教室として使われていたのだろうこの部屋は学校の了解を得て、今では俺の暮らす自宅となっている。いわゆる普通の文科系部室にありがちな机やボード、ロッカーや資料棚だけでなく、ベッドや冷蔵庫、そして今使っているコーヒーメーカーのようなごく個人的な家具までが持ち込まれている。外出を苦痛に思う俺のため、この校舎内で全てが完結するよう取り計らってくれた結果だった。
「学校に私室を作ろうとした人間は何人か見てきたが、学校を自宅にした人間は君ぐらいだろうな」
「羨ましいか?」
「まったく。僕は切り離したい性質なんだ。家と学校を往復する間に、気を抜いたり張ったりできるからさ」
「そういう考え方もあるかもな」
俺はコーヒーの入ったカップを石田の前に置く。羨ましくないと言いながら、石田は興味深そうに辺りを見回していた。
「そういえば、執筆はパソコンでするのか?」
「いや。自分でタイピングしたんじゃ、思考に速力が追いつかんからな。専門のタイピストを雇ってるよ。電話越しに話して、それを原稿に書き起こしてもらってる」
「なるほどね。……いや、不思議なんだよな、正直」
「不思議?」
石田は熱々のカップを傾け、中の飲み物を啜りながら俺に尋ねてきた。
「前から気になってたんだが、どうして君はこの高校に入学したんだ? 人を雇えるぐらいには、作家として生活を成り立たせる資力があるんだろう」
「編入して一年になるのに、今更その質問か? お前も手紙を読んだだろ」
「読んだよ。読んだが、問題は『なぜ』ってことさ。婚約が破談になったのは六つのときだろ。それにその約束自体、僕らが生まれるはるか前に結ばれたものだ。彼女の話を聞いてやる義理は、君にはないだろ」
私立筆山高校は県内最大の進学校で、OBには県政財界のお偉方が名を連ね、その子息が生徒として多く通っている。建学当初から教師生徒ともに少数精鋭の方針を貫き、生徒数は三学年全て合わせても八百人に満たない。村上綾乃はこの高校の創設者の血を引いていて、現理事長は彼女の祖父にあたる。そして彼女は、かつて俺の
許嫁婚。例えば石田の両親はそうだったらしい。でもそれは昭和平成の時代、なにせ今はそれらを飛び越えて令和の時代だ。お見合い婚ならまだしも、許嫁婚など時代遅れというのが現代っ子にとっての正直な感想だろう。
それにあとから聞いた話によれば、どうやらその婚約は酒の席で結ばれた話だという。いかなる信憑性のあるものか分かったもんじゃない。彼女のほうにしたって、どれほど本気にしていたのか怪しいものだ。
「別に彼女の言葉に
「君はいつからそんなに義理堅い人間になったんだ? 学校一の
カミツキガメ? 石田の物言いには一言抗議したくなったが、やめた。石田は
「例の一件以来、君はしばらくこの街を離れていたし……それに頭の出来を考えれば、アメリカの大学に行っても不思議じゃなかった」
「それは、姉貴のことを前提にいってるのか?」
「
「姉貴にも姉貴の人生がある。たしかに銀行口座には毎月印税収入が入ってくるが、金を稼げることと生活能力があることは別の問題だ。いつまでも統合失調症の弟の面倒を見るために、姉貴の貴重な時間を浪費させるわけにはいかない」
「だが君のお姉さんは――」
「石田」俺は石田を右手で静止し、話をそこで遮った。「わかるよ、姉貴はたしかに優秀だ。だが神じゃない、普通の人間だ。少なくとも生理学的にはな」
姉貴の優秀さはよく分かっている。米国の大学を出たあと
だがそれでも、全てを完璧にこなせる人間なんていない。
「その口ぶりからすると、まさか君は楓さんに負い目を感じてるのか?」
「姉貴ははじめから医者になりたかったわけじゃない。あの事故の後、俺が統合失調症を発症したことを機に進路を変えたんだ。症状が落ち着くまで、姉は俺に付き添って看病もしてくれた。姉が好きなわけじゃなくても、俺が姉貴の才能を望まない形で使わせたのは事実だ。これ以上姉貴の善意に頼るわけにはいかない。それに」
「それに?」
そこまでいって、口から出かかった言葉を飲み込んだ。こんなことは、石田に言ってもしょうがないことだ。
「それに……ここでの暮らしも悪いものじゃないさ」
「まあ、買い物をしてきてくれる親切な友人がいるからな」
石田の言葉に、俺は肩をすくめた。