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第456話

「師匠……しばらくお手伝い出来なくなるかもですが……」

「気にしないでください。それよりも早く新しい離乳食のレシピを試したくてウズウズしてるんです。元気な子を産んでください」

「はい!」

 鈴の料理の師匠である喜兵衛は相変わらず優しい。涙を拭いながら頷くと、喜兵衛は笑って冷蔵庫に仕舞ってあった果物のジュースをくれた。

「千隼のですが沢山作ったので、良かったら。さあ、早く部屋へ戻ってください!」

「ありがとうございます!」

 喜兵衛の優しさに感動しつつ部屋へ戻り扉を開けようとしたその時、突然玄関の方から大きな物音がした。

 何事かと思って玄関へ向かおうとすると、廊下の曲がり角から珍しく慌てた様子の千尋が駆けてくる。

「ち、千尋さま!?」

「鈴さん! こんな所で何をしているのですか!? 寝ていないといけません!」

「え、あ、はい」

 そう言って千尋は鈴の手からジュースを抜き取ると、片腕で鈴を抱き上げ部屋まで運ばれてしまう。

 そしてベッドに寝かされたかと思うと、千尋は鈴の顔を覗き込み血の音を聞いて早口で問いかけてきた。

「仙丹は飲みましたか?」

「はい、朝方に」

「朝? もしかして朝から気分が悪かったのですか?」

 少しだけ眉根を寄せる千尋に鈴が恐る恐る頷くと、千尋は怖い顔をして詰め寄ってきた。

「どうしてその時すぐに私に連絡をしないのですか」

「そ、そこまででは無かったので心配をかけてはいけないと……それに、千隼を送る時にはすっかり治まっていたのです」

「そうですか……朝に飲んだのならまだ効いているはずです。それでも悪化するなんて……」

「大丈夫ですよ、千尋さま。少し寝ていれば落ち着くと思いますから」

 鈴が千尋の手の甲を撫でながら言うと、千尋は心配そうに眉尻を下げて頷く。

 ところがそれからしばらくしても鈴の体調は戻らず、むしろどんどん悪化していた。

 そして見かねた千尋はとうとう医者を呼んでくれたのだが、雅が連れてきた医者は産婆だ。

 しばらく千尋はその事に気付かないでいたようだが、鈴の妊娠を知った時、泣きそうな顔をして鈴を膝の上に抱え上げ、抱きしめて感極まったようなキスを何度も何度もしてくれた。

 この日から千尋がさらに過保護になったのは言うまでもない。

 翌日。

「鈴、今日の千隼のお迎えは栄が行ってくれるってさ」

 部屋の外から聞こえてきた雅の言葉に鈴はベッドからどうにか起き上がり返事をした。

「本当ですか……すみません……二人目なのに不甲斐な——うっ」

 千隼の時と比べると次の子は繊細なのか何なのか、好き嫌いが激しい。出汁どころかほとんどの物を受け付けず、今食べられるのはパンとお茶のみである。

 流石にそれでは栄養が偏るという事で毎日喜兵衛が試行錯誤してパンに色んな物を練り込んでいくれているが、時々驚くほど美味しいパンが出来上がって喜んでいた。

「ほら、お茶持ってきたよ」

「ありがとうございます」

 手渡されたのは弥七が丹精込めて育てたハーブで作られたハーブティーだ。弥七はこのハーブティーの為に朝から晩まで書斎に籠もり、効能を調べ上げてくれたのだという。

「皆さんの愛情に涙が出そうです」

「泣くんじゃないよ。弥七は喜んでやってんだ。千尋の言いつけだって、言われなくたってしただろうさ」

 そう言って雅は笑って鈴の頭を撫でてくれた。

 鈴はお腹を撫でながらそっとお腹の子どもに話しかける。

 千隼の時はよく泣き言を言った鈴だったが、今回は千尋も側に居てくれるので何の心配もしていない。そんな鈴を見て雅は目を細めて猫に戻ると鈴のお腹に顎を置く。

「あんたは幸せだねぇ。千隼の時もそうだったけど、生まれる前からこんなに愛してもらえるんだ。だから元気に出てくるんだよ」

「皆、待ってるからね」

 こうして、神森家に新しい命が誕生しようとしていた。

 そんなある日、朝から職場に向かった千尋が昼過ぎに何やら大荷物で屋敷に帰ってきた。

 それは少しだけ悪阻が落ち着いてきた鈴が千隼と一緒に庭で水撒きをしていた時の事だ。

 最初は千尋が何か忘れ物をしたのだろうと思っていたのだが、そうではなくて仕事を家でしたいと流星に直談判をしてきたという。 

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