それは懐紙で一口大に包まれた何かだ。その中から甘い香りがしておもむろに懐紙を開くと、出てきたのはコロンと丸いチョコレートだった。
「これ……」
「ママからのお手紙あるよ」
千隼がそう言うのでチョコレートを包んでいた紙を開いてみると、そこには美しい筆記体で『I love you』と書かれている。
それを見た途端、千尋の角は一瞬で消えた。千尋はその小さな懐紙を懐に仕舞うと、千隼を抱き上げて膝に乗せ、皆と同じように席につく。
「千隼……鈴……助かった……ありがとう!」
「……こんな事で人生の幕が閉じるのかと思った……あ、千尋さまもどうぞ」
栄と梨苑の言葉に楽は頷いているが、千尋からすれば仲間外れにされた事よりも鈴のお菓子を自分が居ない所で皆で食べているという事が気に食わなかっただけである。
「ええ、ありがとうございます。千隼、あなたにはこのチョコレートをあげましょう。まだあるのですか?」
「うん。ママが3つくれた」
そう言いながら千隼は短い指でどうにか3と示す。そんな些細な事に千尋は思わず感動してしまう。ついこの間まで2までしか出来なかったというのに。
「そうですか。では一つを夏樹に、そしてもう一つは梨苑に差し上げてください」
「うん! パパのは?」
「私はもっと素敵な物を貰いましたから、千隼がどうぞ」
千尋が言うと、千隼は少しだけ考えてチョコレートを半分齧ると、もう半分を千尋の唇に押し付けてきた。
「半分こ! ママが大好きな人とするよって言ってしてくれるもん!」
「そうですか。ではいただきます。ありがとう、千隼」
きっと鈴はそう言って千隼が食べすぎてしまわないように気をつけているのだろうが、その優しさや愛情はこうやってちゃんと千隼に受け継がれている。
何だかそれが嬉しくて千隼を撫でると、それを見て同じように夏樹も楽にチョコレートを分けてやっていた。
そんな子どもたちを見る大人の視線は皆、にこやかで何とも言えない優しい空気が流れる。
「心地よい感情の伝染とは、こういう事なのですね」
鈴から貰った感情は、今こうして都に伝染しつつあった。
♡
学校が近くにあるというのは、こんなにも賑やかなのだな。
鈴は今日も屋敷の外から聞こえてくる子どもたちの声に目を細めながら繕い物をしていた。
学校が開設したのとほぼ同時に幼稚園も出来たのだが、その第一期生として千隼と夏樹が共に通っている。
千隼が居ないだけで屋敷はこんなにも静かだ。何だかそれが寂しくなってしまう事もあるが、千隼と屋敷の中に閉じこもった二週間を思い出すと、そんな考えは一瞬で消え去る。
「毎日楽しそうだもんね」
どこかへ通うと言えば鈴の中では菫や蘭を見ていたからか、怖くて辛い場所だと言う印象しか無かったのだが、千隼の様子を見ている限り幼稚園はとても楽しそうだ。毎日幼稚園であった色んな話を聞かせてくれる。
繕い物が終わって立ち上がろうとすると、不意に目眩がして鈴はその場にまた座り込んだ。
今日は朝から何だか調子が悪い。千尋の力もしっかりと受け取っているというのに。その割に背中の傷は傷んだりしないので、余計に不思議だった。
とりあえず目眩が収まったので炊事場へ行くと、そこでは雅と喜兵衛が既に夕食の準備を始めていた。
「すみません! 少し遅れて——っ」
思わず口元を抑えた鈴に気付いて、雅と喜兵衛が駆け寄ってくる。
「鈴!?」
「鈴さん!?」
鈴はそんな二人に頭を下げつつその場を立ち去り、すぐさまお手洗いに駆け込む。
これは何やら覚えがある。それに気付いたのは胃の中の物を全て吐き出した後だ。
よろよろと炊事場へ戻り中には入らないようにしつつ炊事場の外から中を覗くと、そこには心配そうな、けれどどこか嬉しそうな雅と喜兵衛が口々に言う。
「あんたは部屋に戻ってな!」
「鈴さん、何の匂いが駄目でした?」
にこやかな二人にはもう原因が分かっているはずだ。鈴ももちろんもう分かっている。
「えっと、多分出汁の匂いかと……」
「今回は出汁か! ちょっと良くなったらどれが駄目か探ってみるか」
「そうですね。とりあえずカツオは駄目みたいです」
「お手数おかけします……」
苦笑いしながら言うと、雅も喜兵衛もにこやかに首を振る。
「何言ってんだ。あんたはとにかく安静にしてな。あたしは千尋に連絡してくるよ」
「あ、でもまだ妊娠の事は——」
「分かってるさ。もしかしたら違う病気かもしれないし、医者に見てもらうまでは絶対安静だ」
雅はそれだけ言って炊事場を出る時に鈴の頭を撫で、そのまま猫に戻って廊下を駆けて行った。