そんな楽を見て千隼がおもむろに庭へ駆けて行った。しばらくして戻ってきた千隼の手には何やら花が握られている。それを見て絶叫したのは弥七だ。
「ち、ちーちゃん! そ、それは野菜の花! た、種取り用に置いてたやつ!」
「黄色くて綺麗。すーねぇね喜ぶよ」
「ありがとな、千隼。でもこれは弥七さんの大事にしてる物だからちゃんと謝ろうな?」
楽は千隼が摘んできた花を受け取って言うと、千隼はあからさまにしょんぼりして弥七に頭を下げる。
「うん……ごめんね、弥七おじ」
「うー……可愛いから許す!」
随分としっかり話すようになった千隼は、この一年でぐっと子どもらしくなった。もうそろそろ赤ん坊は卒業だ。
「しかし野菜の花じゃちっとばかり色気に欠ける。やっぱり地上の花屋で買った方が良いんじゃねぇか?」
「そうですね。楽、正解が分かりませんが、明日の朝一で花を買って行きなさい」
「は、はい!」
「菫ちゃん……菫ちゃんにまた会えるなんて……」
鈴はまだ菫に会えるという喜びを噛み締めている。そんな鈴の気持ちが楽にも痛いほど良く分かる。
「どうしよう……俺、ちゃんとあいつに釣り合うかな」
何せ菫はまだ女性では難しいと言われている学問の道を進んだ人だ。今まで菫の側で菫の頑張りを見てきた楽だが、果たして本当に菫に釣り合うのだろうか。
自信を無くしかけて落ち込みそうになった楽に、ようやく現実に戻ってきた鈴が早口で言う。
「今更何を言っているのですか! 釣り合うに決まってます! 都一のおしどり夫婦になり——あ、嘘です。一番は私と千尋さまですが、菫ちゃんには楽さんしか居ません! それは絶対です!」
「鈴さん……その通りです。都一のおしどり夫婦は私達ですが、あなた達は二番目におしどり夫婦になれると私も思います」
「あ、ありがとうございます! 二番目目指して頑張ります!」
気持ち的には一番を目指したいが、この夫婦には何となく一生勝て無さそうな気がする。
楽はそんな事を考えながら声を張り上げると、後ろから雅と栄の呆れたような声が聞こえてきた。
「二番目で納得すんのかよ」
「ところでさ、盛り上がってるとこ悪いんだけど、家はどうすんだい? あんた達」
「今探してるんですけど、千隼が居るから出来れば近くが良いけどこの辺高すぎて」
何せ高官や有名人ばかりが住むような場所だ。高いに決まっているし、そんな所に楽が家を建てられる訳もない。
すると、横からよく一緒に家探しを手伝ってくれている喜兵衛が項垂れた。
「自分も最近都の料理偵察しながら探してるんですけど、なかなか……」
「まぁしばらくは二人でここに住めば良いんじゃないか? ゆっくり探せば良いと思うがな」
「でも……」
栄の提案はとても嬉しいが、この屋敷の主は千尋だ。楽がちらりと千尋を見ると、千尋は困ったような顔をして頷いている。
「構いませんよ。というか、今あなたに出て行かれると困るのは私達も同じです。ねぇ? 鈴さん」
「はい。千隼がせめて夜一人で眠れるようになるまでは……困るかもです」
「あー……な」
楽は足元で機嫌よくお絵かきをしている千隼を見下ろして苦笑いを浮かべた。
千隼は楽を相変わらず兄のように慕ってくれている。それは嬉しいのだが、寝る時は絶対に楽の寝かしつけでないと寝ないのだ。それからどこへ行くにも後をついてくる。
だから余計にせめて近くの家にと思っている楽である。
「すみません、楽さん……私が不甲斐ないばかりに」
申し訳無さそうに頭を下げる鈴に楽は笑って首を振った。
「それは違うだろ。千隼は確かに俺に懐いてるけど、やっぱ何かあった時はお前とか千尋さまのとこに行く。ちゃんと分かってるよ、こいつは」
「そ、そうでしょうか?」
「そうだよ。あんま子ども舐めんなよ。覚えてんだぞ。優しくしてくれたとか、愛情注いでくれたとかそういうの。たとえ赤ん坊でもな」
両親の記憶は一切無い楽だが、寒空の下で木の根元に蹲って震えている所に千尋が傘を差し掛けて抱き上げてくれた事を、楽は赤ん坊だったのに今でもはっきりと覚えている。「行く所がないなら、うちへ来ますか?」と優しく話しかけてくれた事も。
「そうですか。楽さんが言うのならきっとそうなのですね。でも千隼が楽さんを大好きなのも本当です。それに私も楽さんが近くに居ないのは寂しいです。千尋さま、どうにかなりませんか?」
鈴はそう言って千尋を見上げたが、千尋はじっと楽を見つめて何か考え込んでいる。
「楽、あなた地上に下りたら寄宿舎について調べてきてください」
「へ?」
「頼みましたよ。鈴さん、大丈夫です。私がどうにかします」
「はい! やっぱり千尋さまは頼もしいです!」
目を輝かせて千尋を見上げる鈴を見て千尋が相変わらず甘ったるく微笑む。この水龍は本当に鈴にだけは馬鹿みたいに甘い。