千尋が何を言っているのかさっぱり分からない鈴は首を傾げている訳だが、千尋も店主も何やらやけにスッキリとした笑顔だ。
「そうでしたか! ではこちらがお噂の……」
「ええ。あの時は世話になりましたね」
「いえいえ、とんでもない。では今日はお食事だけでしょうか?」
「そうですね。案内をお願いします」
やがて席に案内され、食事を注文して正面に座る千尋を見上げていると、千尋は困ったように笑って肩を竦める。
「あなたにも種明かしをしないといけませんね。実は蕎麦屋というのは——」
声を潜めて蕎麦屋の二階の話を最後まで聞いた鈴は、顔を真っ赤にして両手で覆う。
都で起きた戦争のせいで互いが離れ離れになり、千尋に見張りが立てられていた時でも会話だけはする事が出来たのは、この蕎麦屋のおかげだったらしい。
「そ、そんな事があったのですね!」
「そうなのですよ。だからあの時の私は色んな方に勘違いをされていたと思います」
おかしそうに肩を揺らす千尋に鈴はさらに縮こまってしまった。
「何だかすみません……そこまでして小瓶で通信をしてくれていたのですね」
「私がしたかったのです。あの時はあなたの声が聞けるだけで幸せだったのですよ」
「それは私もです」
顔を見ることが出来なくても、声が聞こえるだけで直ぐ側に千尋が居るようで安心する事が出来た鈴だ。
離れ離れだった時の事を思い出すと今でも悲しくて切なくなるが、あれもきっといつか良い思い出になるはずだから。
夕食を食べ終えて蕎麦の感想を言いながら屋敷に戻ると、門扉を開けた所でふと千尋が足を止めた。
「千尋さま?」
「鈴さん、こちらへ」
そう言って千尋は鈴に手を差し出してきたので鈴がその手を掴むと、突然何の前触れもなく千尋に抱き上げられる。
「あ、あの!?」
「しー。千隼に気付かれてしまいます」
パチンとウィンクをしてそんな事を言う千尋に鈴は慌てて口を押さえて頷くと、千尋は微笑みながら屋敷の裏に回り込んだ。
そこにはあの地上から連れてきた大木が今日も都を一望している。
「しっかり掴まっていてくださいね」
千尋はそう言うなり軽やかに大地を蹴って、あのお気に入りの枝に飛び上がった。
鈴は千尋から下りて枝に腰掛けると、千尋もすぐ隣に腰掛ける。
しばらく二人で都の明かりを見つめていたが、ふと千尋が口を開いた。
「流星に聞きましたよ。息吹とこの木に登ったって。それに千隼とも」
「ご、ごめんなさい」
危ないから木登りはするなと言われていた鈴だが、定期的に千尋には内緒でこの木に登っていた。
千尋の声は怒ってはいないようだったが、少しだけ不安そうに滲んでいる。
「怒っていませんよ。少し心配だっただけですから。それにあなたがこの木に登る理由も何となくですが分かるので」
「え?」
思いも寄らない千尋の言葉に思わず鈴が千尋を見上げると、千尋は困ったよう優しげな笑みを浮かべた。
「地上が恋しくなった時に登るのかな、と。違いますか?」
「……ど……して?」
分かったのだ。鈴はそんな言葉を飲み込んだ。何故なら千尋の笑顔が寂しそうになったから。
「私もそうでしたから。言ったでしょう? 都から地上に降りて行き詰まり、自分のしている事が本当に正しいのかどうか分からなくなった時、ここへ登って発展していく街を眺めていたのだと。少しでも都に近い所から見下ろして龍の尊厳を守ろうとしていたのですよ、私は。そうしなければ自分を保つ事が出来なかった。雅達に聞く限り、あなたがこの木に登っていた時期とあなたの心が不安定になった時期は重なります。だとすれば、きっと私と同じ理由で登ったのかなと思ったのです。もちろん私と鈴さんがこの木に登る根本的な理由は違うかもしれませんが」
そこまで言って千尋はそっと鈴の頭を撫でてくれた。
千尋に撫でられる度に鈴はいつも嬉しいような、泣き出しそうな不思議な気持ちになってしまう。
「帰りたい訳じゃないんです。これからもずっと千尋さまの側に居たいのも変わりません。でもたまに、たまにですけど地上の皆が、空気が、景色が懐かしくなってしまって……」
「言ってくれれば良かったのに」
「何度も言おうとしたんです。でもきっと、そんな事を言ったら千尋さまは私をここへ連れてきた事を後悔してしまうんじゃないかって。淋しく思ってしまうんじゃないかって……思って」
頭を撫でられながら素直な気持ちを告げると、千尋は鈴の肩に手を置いて鈴を引き寄せる。
「私の心配をしてくれたのですか? でもその心配は無用です。鈴さんが私の隣に居たいと思ってくれている事も、私を心から愛してくれている事も私は知っています。それにその寂しさを私は紛らわせる事が出来ない事も」