思わず吹き出しそうになった千尋を鈴が怪訝な顔で見上げてくる。
「? どうして笑うのですか?」
「いえ、すみません。ええ、本屋です。あのお店には私も大分昔に一度だけ行った事がありますが、あそこは地上の本を置いてくれている貴重なお店なのですよ」
「そうでしたか。あ! でもだったら地上の本の新刊なども仕入れてくれるでしょうか?」
「どうでしょう? 覗いてみますか?」
「はい!」
都で生活していた時の事は沢山覚えているけれど、そのどこにも鈴は居なくて苦い思い出ばかりだ。
けれどこうして鈴と町を歩いているとその記憶はどんどん上書きされていく。
そして上書きされた記憶は甘くて幸せな物へと変わるのだと言う事に気づき、そんな自分の心境の変化があまりにも単純で思わず笑ってしまった。
千尋は鈴の手を引いてその耳に顔を寄せて囁く。
「鈴さん、また今度デートしてくださいね」
突然の囁きに鈴は驚いたように顔を上げ、次の瞬間には微笑んだ。
「もちろんです! これからも色んな所に千尋さまと行きたいです。連れて行ってくれますか?」
「ええ。ではまずあの本屋へ行ってそれから宝飾店も覗きましょう」
「え!? ほ、宝飾店も覗くのですか?」
何かを察したのか鈴が笑顔を引きつらせるが、そんな鈴を見て千尋は目を細めて頷いた。
「せっかく来たのですから、どうせなら全部塗替えてしまいましょう」
「塗り替える?」
「こちらの話ですよ。さあ、行きましょう」
鈴を連れてまずは本屋に立ち寄ると、二人で本を選んだ。
千尋はまだ読んだ事のない哲学書を買い、鈴はお気に入りだった作者の廃盤になってしまっていた初期の本を購入する事が出来たと嬉しそうだ。
それから宝飾店へ向かうと千尋は躊躇う事なく鈴の手を引いて店内に入る。
店主は突然やってきた千尋を見て息を飲み、さらに鈴を見て完全に固まった。
「何かおすすめはありますか?」
固まったままの店主に千尋が問いかけると、店主は小刻みに震えながら頭を下げる。
「よ、ようこそおいでくださいました。今日はお連れの方とご一緒に入ってこられたのですね……」
店主が言っているのはあの時の事だろうと気付いた千尋は、店主と同じぐらい高価な商品を見て震えている鈴の手を取り頷く。
恐らくこの店主は初派だったのだろう。だから震えながらもこんな風に遠回しに千尋を責めているのに違いない。
あまりにも失礼な店主に千尋はいつものように微笑んで言う。
「ええ。あの時とは違って今日連れてきたのは妻です。何せ愛しすぎてこの私が地上から攫ってきてしまったぐらいですから。それともあなたは、ただの幼馴染に贈り物の一つもしなかった私を責めているのでしょうか?」
「……そ、そんな事は! えっと、今日は何をお探しですか?」
「特に何を探しに来たという訳ではないのです。妻と都での初めての洋装デートの記念日に何か贈ろうと思ったのですよ」
「洋装デート記念日!?」
その言葉に驚いたのは店主ではなく、鈴だ。
「ええ。私が何かをあなたに贈る時はちゃんと記念日なのですよ」
「そ、そうですか? それでは三日前の胡蝶蘭は……」
信じられないとでも言いたげな鈴を見下ろして千尋は柔らかく微笑む。鈴のこの困惑したような顔が大好きな千尋だ。
「あれは鈴さんがこちらにやってきて初めてハーブを干した記念です」
「ハーブを干した記念……じゃ、じゃあ昨日のブローチは……?」
「あれは鈴さんと出会ってから鈴さんから手を繋いできてくれた216回目の記念です」
「……」
それを聞いて黙り込んで青ざめる店主とは違い、鈴は目を輝かせる。
「amazing! もしかして他の事も全て覚えてくれているのですか!?」
「もちろん。あなたと出会ってから今日で何日だなとか、あなたと千隼が布団を蹴飛ばした回数だとか、もちろん他所では言えないような事も全て覚えているし数えていますよ」
こんな事を仲間内に聞かれたらまた物凄い視線を送られるのだろうが、鈴だけはいつも驚き、喜ぶ。
「素晴らしいです! 私も最初はノートに色々とつけていましたが、ノートが三冊に到達した所で止めてしまったんです……」
「おや、それはどうしてです?」
「雅さんと楽さんに、ノートが勿体ないのと気味が悪いから止めなさいと止められてしまって」
「気味が悪いだなんて失礼な! 帰ったら二人にはキツく言っておかなければいけませんね」
失礼な事を言う猫と龍だ! 少しだけ眉を吊り上げた千尋を見て、鈴はすぐさま言葉を付け加えた。
「いえ。お二人の言う事はごもっともだったのです。貴重なノートに書くべきではありませんでした。だからそれからはカレンダーに書くようにしたのです! こうしたら後からカレンダーを見ればすぐに分かりますから。それに千尋さまが覚えていてくれるのなら、私が少々計算を間違えても安心です!」
「数えるのを止めた訳ではないのですか?」
「はい、それはもちろん。私にとって千尋さまと歩んできた月日はかけがえのない宝物ですから!」
コクリと頷いた鈴を見て千尋は笑み崩れる。やはり鈴は千尋の運命の番だ。