鈴が目を覚ましたのはそれから半時ほど経った頃だ。
「ん……千尋……さま……」
「おはようございます、鈴さん」
「おはよ……ござい……ます……へっ!?」
鈴は何気なく視線を時計に向けて、今の時間を確認するなり青ざめて千尋を凝視してくる。
「目が覚めましたか?」
「は、はい! ち、千尋さま! 遅刻なのでは!?」
「そうですねぇ。でも一日ぐらい私が居なくてもどうにでもなりますよ」
そもそも龍に始業時間などという概念などないのだが、千尋がのんびり言うと、鈴は目がこぼれ落ちるのではないかと思うほど驚いて息を飲んでいる。
そんな鈴がおかしくて思わず笑い声を漏らすと、鈴はすぐさま千尋の腕の中から這い出ようとするので、千尋はさらに鈴を腕の中に抱え込んだ。
「どこへ行くのです?」
「ど、どこって、千尋さまのお弁当!」
「大丈夫ですよ。もう休みの連絡はしましたし、あなたの寝坊も伝えてあります。もう少しだけゆっくりしましょう?」
その言葉に鈴はようやくホッとしたような顔をして笑顔を浮かべて頷く。
「びっくりした……本当に心臓が止まるかと思いました」
「すみません。反応があまりにも可愛いのでつい」
そう言って微笑むと鈴は困ったように笑う。
こんな些細なやりとりでさえこの二週間は無かった。どうしてそんな事が出来たのか、今となってはもう分からない。
鈴はいつも前を向き、生きる事を決して諦めない強い人だ。
けれど今回の事で鈴の脆い部分を知った。
いつも誰かの為に心を砕く鈴は、その誰かを守るためには自分を犠牲にするのも厭わない。そしてそれが上手くいかなかった時に自分を限界まで追い詰めてしまうようだ。
「鈴さん」
「はい?」
「今回の事で私はより強くあなたを愛しいと思ったと言ったら、あなたは怒りますか?」
「……怒りはしません……でも、理由を聞いても良いですか?」
「もちろん。今回の事で私はようやくあなたの心の脆い部分に触れた気がしたのですよ。あなたは私の前ではいつも良い花嫁で居ようとするでしょう?」
千尋の言葉に鈴は目を瞬かせる。そんな鈴の頬を撫でながら千尋はさらに言う。
「それがね、少しだけ寂しかったのです。雅にはいつも弱音や本音を言うのに、どうして私には言ってくれないのか、と」
「そ、それは千尋さまに嫌われたり呆れられてしまうと思って……」
「ええ、知ってます。だから私は寂しいと思っていても踏み込む事はしなかった。けれどそれは間違いでした。私と鈴さんは夫婦で、現状や不満をきちんと話し合い、打ち明けるべきだったのでしょう。だって、あなたの弱みすらこんなにも愛しいと思えるのですから」
「それは……私もかもしれません。たまに千尋さまが漏らす弱音を聞いて、私はより千尋さまを愛しいと思うのですから……」
弱音や弱みを誰かに見せる事は龍としては恥ずべきことだと教わってきたけれど、鈴の前でたまに本音が漏れてしまう。言った後にいつも軽蔑されるのではないかと思っていたのは千尋も同じだ。
千尋は鈴の言葉を聞いて微笑んだ。
「お揃いですか?」
「はい。お揃いみたいです」
はにかんで笑った鈴を千尋はもう一度抱きしめて随分伸びた鈴の髪を一房手に取り口づけた。
「お揃いが増えるのはいつまで経っても嬉しいですね」
「はい」
今回の事でまた何か夫婦としての絆のような物を強く繋いだ気がする。
千尋はそんな事を考えながら鈴を抱きしめ、結局昼過ぎまで二人で色んな話をしながら寝台で微睡んでいた。
ようやく寝室を出ると、鈴はそのまま炊事場へ向かった。どうやら千尋の昼食を用意してくれるつもりらしい。
そんな鈴に感謝しながらも居間へ行くと、楽が千隼とお手玉をして遊んでいる。そんな千隼と楽に千尋は声をかけた。
「楽、千隼、外へ行ってかまくらを作りましょうか」
千尋の言葉に千隼はハッとして駆け寄ってくると、千尋に抱っこをせがんでくる。
「千尋さま? 良いんですか? それにあいつは……」
怪訝な顔をしてこちらを見上げた楽は、千尋の顔に出ている婚姻色を見てホッとしたような顔をした。
千尋が事情を説明しようと口を開きかけたその時、居間に鈴が満面の笑みを浮かべてやってくる。
「千隼、楽さん、おはようございます」
「え? あ、ああ、おはよう」
「おひるだよ! あさじゃないよ」
鈴の言葉に戸惑う楽と寝坊した事を指摘してくる千隼に千尋が肩を揺らしていると、鈴が楽に嬉しそうに話し出す。
「これからお庭には出ても良いと千尋さまからお許しが出ました! 楽さん! かまくらを作りましょう! それから千尋さま、これ皆のお弁当です。かまくらの中で皆で食べませんか?」
そう言って鈴が得意げに見せてきたのはお盆に乗った沢山のおにぎりだ。
「良いですね。では張り切って大きいのを作らなければ。楽、手伝ってください」
「は、はい!」
まだポカンとしてはいるものの、鈴の笑顔を見て楽は嬉しそうに微笑む。最初の頃はあんなにも険悪だった二人だが、今はもうすっかり家族だ。