千尋は羽鳥から視線を逸らして呟くと、愛しい少女の顔を思い浮かべた。
鈴が誰にでも優しい事は分かっているし、誰にでも惜しみなく愛情を注ぐのも彼女の長所だ。
けれどたまに、とてもそれが苦しくなる事がある。こんな事を言ったら鈴は悲しむかも知れないが、その愛情を自分にだけ向けて欲しいと願ってしまうのは千尋のただのワガママなのだろう。
「その顔を見ると、さては君は怒ったのかな?」
「……まぁ、そうですね。普通、自分を狙った犯人におにぎりなんて渡そうと思わないでしょう? それに何を隠し持っているかも分からないですし」
「それはそうだね。でも、それが鈴さんだ」
「それも分かっているんです。それが彼女の長所なのだと言う事も」
苦笑いを浮かべた千尋を見て羽鳥は微笑む。その顔は馬鹿にしているような顔ではなくて、どちらかと言うと同情しているような顔だ。
「君も大変だね。でも鈴さんは間違えないと思うよ。いざという時はやっぱり君を一番に優先させてくれる。彼女は、そういう人だよ」
「そうですか?」
「うん。さてと! そろそろお暇しようかな。君の言う通り風龍の証言を理由に一部の罪人を都に移すよう僕からも進言しておくね」
「ええ、ありがとうございます」
千尋は羽鳥が出ていくのを待って食器を片付けると、入れ違いに部下が入ってきた。
「千尋さま。これが本日分の書類です。一つ見て欲しい案件があるのですが」
「お疲れ様です。構いませんよ。どれですか?」
食器を机の上に戻して部下から書類を受け取ると、部下はすぐさま食器を千尋の代わりに片付け始める。本当によく気の利く部下だ。
その日も無事に仕事を終えた千尋は、屋敷に戻り食後の貴重な鈴と過ごす二人きりの時間に書斎で今日の話を伝えた。それを聞いた鈴の反応はと言えば。
「そうですか! 地上でも罪人との面会の機会などがありましたが、そういうのはやはりどちらにとっても良いのかもしれませんね」
嬉しそうに微笑む鈴を見て千尋の胸はギュッと痛むのに、何故か同じぐらい温かくもなる。とても不思議な現象だ。
「鈴さんはそう思いますか?」
「はい! どちらも顔を見ることで、声を聞くことでまた未来に向かって歩き出せると思うので。それにその番の方はもしかしたらもう風龍さんが自分の事を忘れて他の誰かと幸せになっていると思っているかもしれません。だとしたら、どちらも可哀想です」
「可哀想?」
「だってすれ違って誤解したまま長い時をこれから過ごさなければならないのでしょう? 私は二週間で音を上げました」
「確かにそうですね。二週間ですらあんなにも長く感じたのですよね」
鈴の言葉に千尋は頷いた。千尋は龍で鈴は人間だ。だから時間の概念も違う。千尋からすれば50年などあっという間だと思うが、相手が鈴になったらたったの二週間すらも我慢出来ないのだ。
あの風龍からすれば番は千尋にとっての鈴なのだという事をすっかり忘れていた。
千尋は隣に座る鈴の肩に腕を回して引き寄せると、髪にそっと口づける。
「ありがとうございます、鈴さん。やはりこうして何でも相談してみるべきですね」
「相談……だったのですか?」
鈴は千尋の言葉に驚いたように目を丸くする。どうやら今の話を相談だったとは露程も思わなかったようだ。
「そうですよ」
驚く鈴に千尋が笑いながら言うと鈴はさらに目を見開き、次の瞬間何故か嬉しそうに笑み崩れる。
「そうだったんですね。何かお役に立てましたか?」
「もちろんです。龍の私では思い至らなかった事を、あなたは教えてくれました。そうか……だったらやはり罪の重さに比例して牢獄を中と外に試験的に作るのも良いかもしれませんね」
鈴の言葉を聞いて地上の監獄を思い出した千尋がブツブツと呟くと、鈴がそっと席を立って部屋を出ていく。
もちろん千尋は気付いたが、すぐに戻って来る事が分かっているので呼び止める事はしなかった。
「ああ、鈴さんに少し似ているのですね、彼は」
今の部下はよく気が利く。それもとても有り難いが、行動が少しだけ鈴に似ている。だから働きやすいのかもしれない。
無愛想な部下を思い出して1人笑っていると、すぐに鈴がお手製のマカルーンとお茶を持ってやってきた。そしてそれを千尋の前にそっと置いてまた隣に戻って来る。
「今日はお菓子を作っていたのですか?」
ふと千尋が言うと、鈴は嬉しそうに頷いた。
「千尋さまのクッキー缶の中身が少なくなっていたので。ついでに皆の缶にも足しておいたんです」
「私の為に?」
「はい。クッキーはいつも千尋さまの缶を大体の目安にしているんです。あとハーブティーも」
「そうですか。ありがとうございます。いつも助かります」
羽鳥が言っていた事を何となく理解した千尋はもう一度鈴を抱き寄せると、その頬に唇を寄せた。
よくよく考えれば鈴は何でも千尋を一番に優先させてくれているではないか。
「当然です。だって、千尋さまは私の一番大切な人ですから」
そう言って鈴が身体を千尋に預けてくる。その一言が胸の奥にジワジワと染み込んでいった。