そこへ栄と楽がやってきて千隼を抱き上げて椅子に座り、千尋の演奏と鈴の歌声にじっと耳を傾ける。
そんな様子を見ると俄然やる気が湧いてきて、今度は鈴から千尋に目配せをした。そんな鈴に千尋は笑顔で頷いてテンポを変える。
それから何曲か歌い終えると、雅がかまくらから顔を出した。
「餅が焼けたよ! そろそろ戻ってきな!」
その声を聞いて千尋がバイオリンをケースに仕舞い始めると、それを見て千隼がもっと弾けとせがみだす。
「食べてから部屋で続きをしましょう」
千尋が言うと、ようやく千隼は納得したように楽に抱かれてかまくらへ戻っていく。そんな後ろ姿を見送りつつふと視線を感じて玄関の方を見ると、そこには見知らぬ男性がポカンとした顔をしてこちらを見つめていた。
「あの、どちら様でしょうか?」
鈴が声をかけると、男性は何かをポロリと落とす。石だ。
思わずハッとして千尋を振り返るよりも先に、鈴は後ろから追ってきていた千尋に腕を引かれて千尋の背中に庇われていた。
「あなたが噂の風龍ですか?」
普段の千尋からは考えられないような冷たい声に鈴は震えそうになったが、その声を聞いても男性はまだ呆然としている。
千尋が鈴にかまくらに戻るよう手で合図をすると、真っ直ぐに男性に元へと歩き出す。
「聞いていますか?」
鈴は千尋の言う通りかまくらに駆け込み、皆と一緒にかまくらから様子を伺っていたけれど、男性は千尋の声がまるで聞こえないかのようにこちらをじっと見ている。
そんな男性に業を煮やしたのか、とうとう千尋が男性の正面に立って彼の視界を遮った。そんな千尋を見て男性はぽつりと言う。
「あなたの妻は……天上の姫……なのですか?」
「は?」
「あの歌は……龍のじゃない……地上のものでもない……ああ、だから僕の番は選ばれなかった……弥生が悪い訳じゃない……弥生が悪い訳じゃ……誰も悪くない。誰も悪くないんだ」
ぶつぶつと呟く男性はよく見るとボロボロの服を着ていて、擦り切れた着物の裾が泥に塗れていた。痩せこけてどこか虚ろな目で訳の分からない言葉を繰り返す彼を見て千尋が静かに言う。
「私の妻は姫ではありません。ですが、私にとっては唯一無二の人です。あなたにもそんな人が居たのなら、私の今の気持ちが痛いほど分かるはずです」
千尋の声に男性はちらりと千尋を見てくるりと向きを変え、よたよたと歩き出した。その足取りはあまりにもおぼつかなくて見ていられない。
鈴はとっさに自分の皿におにぎりと焼けたばかりの餅を乗せてかまくらを飛び出す。
「待って! 待ってください!」
雅達が止めるのも聞かずにかまくらを飛び出した鈴は、千尋の横をすり抜けて男性を呼び止めた。
「鈴さん!」
そんな鈴を千尋が呼び止めるが、鈴はそれを無視して男性に駆け寄る。
「待っていてあげてください! どうか奥様が戻るのを待っていてあげてください!」
放っておいたらこのまま未来を諦めてしまいそうな男性の危うさに鈴は思わず声をかけた。
「鈴さん! いけません!」
後ろから千尋が追いかけてきて鈴はすぐさま千尋の後ろに押し込められたが、男性はゆっくりと振り返り少しだけ笑った。
「待つ? 彼女を?」
「はい。どうか、生きて待っていてあげてください」
そう言って鈴が千尋の後ろから男性の汚れた手を取り、その手にしっかりと皿を持たせると、それを見て男性はふ、と軽く微笑んで誰にも聞こえないような声で「ごめんね。ありがとう」とだけ呟いて歩き去ってしまった。
少なくともその後姿はさっきよりもずっとしっかりしている気がする。
そんな男性の後ろ姿にホッと胸を撫で下ろしていると、振り向いた千尋に強い力で肩を掴まれた。
「どうして飛び出してきたのですか! 相手は何を持っているのかも分からないのに!」
「ご、ごめんなさい」
千尋の言う通りだ。あまりにも儚げな後ろ姿を見て鈴は思わず飛び出してしまったが、相手は石だけではなく凶器を持っていた可能性もあるのだ。
あまりにも軽率な行動をとってしまって皆にも心配をかけしてしまった。それに気付いて鈴はすぐさま千尋に頭を下げたが、鈴の肩を掴む千尋の指先は震えている。
「千尋さま……」
「あなたに何かあったら、私もあの男のようになるのです。目の前から突然去ってしまった妻を思い、やり場のない悲しみと憎しみを持て余すのです! それを……忘れないでください。絶対に……お願いだから……」
強めた口調はすぐに悲しみの呟きに変わった。
それを聞いて鈴は千尋にしがみついた。もっと冷静にならなければいけない。誰かの事情を心配するよりも、鈴には守らなければいけない人たちがいるのだから。
「ごめんなさい……千尋さま、ごめんなさい」
ことの重大さを理解した鈴が千尋の腕の中で呟くと、それまで早鐘のようだった千尋の心音が少しずつ落ち着き、それを反映するかのように千尋が鈴の髪を撫でてくれる。