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書斎に千尋が入ってきた時、毛布を被っていてもすぐに千尋だと分かった。
静かに入室してくる音、絨毯を踏みしめる慎重な足取り、そっと寄り添うように鈴の隣に腰掛けるのも千尋だけだ。
それから千尋の声を聞いているうちに、鈴はどれほど自分の精神が不安定になっていたのかに気付いた。
千尋の声は不思議だ。聞いているだけでモヤモヤとした気持ちが晴れ渡るかのように浄化されていく。やはり千尋は今も鈴の、鈴だけの龍神なのだ。
だから余計に驚いてしまった。千尋の「ごめんなさい」という言葉と「どこへも行かないで」という言葉に。
栄や流星、羽鳥や息吹から聞く千尋はいつでも冷静で皆の憧れの的で、いつでも公平で落ち着いた印象だった。
それを聞いて余計に鈴は何だか居た堪れなくなったのだ。
千尋にこの気持ちを打ち明けようと思っても肝心の千尋とはすれ違い、この二週間ほどは顔を見ることさえ出来なくて余計に不安になっていたのかもしれない。
鈴は千尋にしがみつくように抱きついて、ようやく自分の気持ちを千尋に伝える事が出来た。
その途端に心の霧は晴れ渡り、ようやくちゃんと呼吸をする事が出来た気がする。
「千尋さま」
鈴がポツリと言うと、千尋は鈴の髪を撫でながらいつもよりもずっと優しい声で言う。
「何ですか?」
「私、外に出ません」
「え?」
「だって、私が外に出るときっと犯人を刺激するでしょう? でも千隼と庭には出ても良いですか? あの子、雪遊びをずっとしたいんです。去年みたいに雪だるまを作ったり、カマクラを作って中でおやつを食べたりしたいんだと思うんです」
「そんな事をしていたのですか?」
「はい。楽さんと中でおやつを食べて二人してお腹一杯になって寝ちゃって、凍えた事もありました」
それを思い出して少しだけ笑った鈴を見て、千尋も微笑む。
「それは危険ですね。その時は私にも一声かけてください。今日のように戻ってきます」
「はい。お買い物は今まで通り雅さんたちにお願いします。でも庭に出る事だけは許してください……お願いします」
鈴がそう言って頭を下げると、千尋は困ったように笑った。
「買い物も行って良いのですよ?」
「いえ……千尋さまがここまでして私達を止めようとしたって事は、きっと石なんかが原因じゃないんじゃないかなって思って……違いますか?」
確かに千尋は少々過保護気味だ。
けれどこんな無茶は決して言わない。それでも今回は庭にすら出る事を禁止されたのだ。それにはきっと他にも何か理由があるに違いない。
案の定、鈴の言葉に千尋は困ったように微笑んで鈴の頬を撫でた。
「そうですね……私が心配したのは、あなたに石が当たるのではないかという事よりも、あなたから発動した私の加護が相手の龍を傷つけた時、あなたはきっと自分を責めてしまうだろうと思ったのです。私の加護はあなたも知っての通り、些細な事でも相手の生命を奪いかねない。それが目の前で起こったら、きっと耐えられないのではないか、と」
「……それで危ないと言ってくれていたのですか?」
「ええ。千隼や雅、栄、楽が側に居ればあなたの加護は余計に皆を守ろうとして発動してしまうでしょう?」
「はい……きっと」
千尋は鈴の心の心配をしてくれていたのか。心の傷がなかなか癒えない事を、千尋もまた痛い程よく知っているだろうから。
そしてそれを鈴に伝えなかったのも千尋の優しさなのだろう。そんな事を言ったら鈴はきっともっと気を張って加護が発動しないようにと苦しんだに違いないから。千尋は今もずっと鈴の心を守ろうとしていくれているのだ。
それに気付いた鈴は堪らなくなって千尋の胸に顔を埋めて小さな笑い声を漏らした。
「私達はこれからもずっとこんな感じなのでしょうか?」
「こんな感じとは?」
「いつもお互いの事を思って遠慮をしてすれ違って……遠回りばかりしてる気がします」
「確かにそうですね。でも、私は今回の事でまたあなたの事を知れた。千隼の事も。怪我の功名という奴でしょうか」
「怪我なのですか?」
「怪我です。でも、怪我はいずれ治ります。痕は残るかもしれませんが、その痕もいつか愛しいと思えるようになるはずです。あなたの傷のように」
そう言って千尋はそっと鈴の背中の傷をさすった。その言葉に鈴は胸が震える。今でも千尋はこの傷を愛してくれているのか、と。