そんな千隼を見て鈴が傷ついたように視線を伏せた。
そこへちょうど雅がやってきたかと思うと、千尋をちらりと見てフンと鼻をならし、鈴の元へ駆け寄り耳元で何か呟いたかと思うと、雅は鈴を連れて部屋を出て行ってしまった。
「……一体何が起こっているのです……?」
分からない。何も分からない。
屋敷の事を全て鈴に任せっきりになっていた千尋には、どうして鈴が突然あんな事を言い出したのか、あんな顔をしていたのかさっぱり分からなかった。
呆然としたまま千隼を抱いて居間へ行くと、そこには楽と栄、そして喜兵衛と弥七が全員集合して暗い顔をしている。
「ただいま戻りました。何かあったのですか?」
千尋が問いかけると、皆ハッとして顔を上げて千尋を凝視してきた。そして皆して一言。
「遅い!」
「何ですか、急に」
あまりにもきっぱりと言い切られて思わず千尋が尋ね返すと、珍しく楽が千尋を睨みつけてきた。
「千尋さま、鈴はこれから医者に診てもらう事になりました」
「医者? どういう事ですか?」
千尋の質問に楽は一瞬眉根を寄せた。そして涙を浮かべて早口で話し出す。
「あいつ、ここ最近ずっと千尋さまも寝てないんだからって言ってほとんど寝てないんです! 飯も食わない! それなのに家事と育児だけは完璧にしようとするんです! 姉さんがいくら止めても、こんな花嫁は失格だからって聞かない! 千尋さまが居ない間は自分が当主の代わりだって言って!」
楽は千尋の胸ぐらに掴みかかる勢いで近寄ってきて、千尋の腕の中から千隼を奪い取ってさらに言う。
「千隼だってそうだ! ずっと家の中に閉じ込められて限界なんです! だから毎日外に行きたいって泣き喚く! 鈴はそれを止めようとして毎日泣きそうな顔で千隼を叱るんです! パパとの約束だよって! 千尋さま何してるんです!? 何で大事なモノ見誤ってるんです!?」
「っ!」
こんな衝撃は生まれて初めてだった。自分は今まで何でも卒なくこなせると思っていたけれど、千尋は家庭を疎かにしすぎた。鈴に甘えすぎたのだ。
それなのに羽鳥や流星の言葉を真に受けて戻ってきた。こんな理由で帰ってきたなどと鈴には絶対に言えない。鈴はそれ以上の痛みを心に負っていたというのに。
千尋は楽の頭を撫でると急いで鈴を探した。楽の言う通りだ。一体何をしていたんだ。鈴が花嫁失格だと言うのなら、千尋は花婿失格ではないか。
廊下を曲がると雅と出くわした。雅はちらりと千尋を見て首だけで書斎を指し示す。
「もしあんたが鈴をこれ以上追い込むんなら、あたしはあの子と千隼連れてここを出てくよ。あんたは好きに生きな」
「……」
どうやら雅にまで愛想をつかされたらしい。千尋は小さく頷いて書斎に向かった。
書斎に入ると、鈴は毛布を被ってソファの上で膝を抱えて座っている。そっと隣に腰掛けると、鈴がビクリと身体を震わせた。
「鈴さん」
呼びかけても鈴の返事は無い。心配になってそっと鈴の毛布を取ろうとすると、それを鈴が拒んだ。こんな事も初めてだ。
鈴が千尋を拒むなんて……それほどまでに鈴は追い詰められていたのか。
千尋はどうすれば良いのか分からなくて、今すぐにでもここから逃げ出してしまいたかった。数日も経てばまたいつもの鈴に戻るのではないか? そんな考えが一瞬脳裏を過ったが、そんな考えをすぐに否定する。
ここで逃げてしまったら、きっともう一生鈴を取り戻す事は出来ない。何となくだけれどそんな気がして千尋はただ黙って鈴に寄り添って座っていた。
しばらくすると鈴がみじろぎをしだす。それに気付いて千尋がもう一度毛布に手をかけると、今度は鈴は拒まなかった。
そして毛布を取り払って鈴の顔を覗き込んで思わず息を呑む。
「血が出ているではないですか! どうして噛んだりしたのです!」
「……」
ずっと噛み締めていたのか、鈴の唇から血が出ている。
その血をすぐさま千尋がハンカチで拭おうとすると、鈴がソファから下りて突然千尋に向かって土下座をしてきたのだ。いつも千尋と対等で居てくれようとする鈴のそんな姿が、胸に突き刺さる。
それが酷くショックで思わず千尋の声は震えてしまった。
「何を、しているのですか?」
「申し訳ありません、千尋さま」
「……何が」
「千隼を……ちゃんと躾けられなくて……千隼……千隼に我慢させてばっかりで上手く育てられなくて……千尋さまは私達の為に頑張ってるのに。私達の為に朝から夜中まで頑張ってくれてるのに!」
震えて叫ぶような悲痛な声に、千尋の胸が軋む。
鈴は千尋を責めてなど居ない。自分自身をずっと責め続けているのだ。鈴とはそう言う人だ。
それを思い出した途端、千尋もまたソファから下りて鈴の小さな身体を抱きかかえた。