あれだけの龍達の発情期をやり過ごした千尋だが、鈴が都に来たことでまるでその箍が外れたかのようにほぼ毎日と言ってもいいほど些細な事で婚姻色が出てしまう。
「もう見慣れちゃったよ。で、出頭してきた?」
「いいえ、まだです。それどころか住処を変えてしまったようで、羽鳥の目でも追えなくなったと連絡がありました」
「……それは厄介だね。まだ火種が残ってたのかな」
「かもしれませんね。まぁ何千年も続いたものがそう簡単に無かった事にはならないでしょうから、気長にいくしかありません」
「でも鈴さんが狙いなら外出は危険だよ」
流星の言葉に千尋は頷いた。その通りなのだ。まだ居場所が分かれば見張りをつける事も可能だが、それすら分からないのでは最悪鈴を外に出すことすら難しい。
「出来る限り鈴さんには自由で居てもらいたいのですが……」
「あの子、ああ見えて天真爛漫だもんね。この間も息吹と一緒にあの大木に登ったらしいし――」
「え?」
それを聞いて千尋が目を丸くして流星を見ると、流星の顔には明らかに「しまった!」と書かれている。
「流星? どういう事ですか?」
「いや俺じゃないって! 息吹だよ! なんか登ろっか! みたいな話になってなーって、その、言ってた……けど」
しどろもどろで目を泳がせながらそんな事を言う流星に千尋は眉根を寄せた。
「聞いてません」
「そりゃ言わないでしょ。そんな顔するんだから」
「危ない事はしないと約束したのに」
「息吹も居たから登ったんでしょ?」
「息吹を信用するんなんて……」
「いや、それは俺の前で言っちゃ駄目なやつだから。あーもー! そういうとこだよ千尋くん! 君は過保護が過ぎる! 鈴さんには自由にして欲しいとか言いながら、彼女を一番に縛り付けてるのは君だよ! 自覚して!」
「……ええ」
はっきりと流星に言われて千尋は渋々頷く。
確かにその自覚はあるのだけれど、いけないとは想っていてもどうしても過保護になってしまう。
ただ木登りは本当にヒヤヒヤするので止めてほしい。せめて自分が居ない時は。
けれど、どうして突然あの木に登ったりしたのだろうか。ふと千尋はそんな事を考えたが、それよりも今は投石犯を捕まえる方が先だ。
千尋が職場に戻りしばらくすると、職場に珍しい客がやってきた。
「よぉ千尋」
「栄? なんです?」
「あれ? 今日は部下はどうした?」
栄は辺りを見渡して首を傾げている。
「彼は今日はお休みです。昨日のお詫びに」
「ああ、な。はい、これ。鈴からだ」
苦笑いを浮かべながら栄は何かを千尋に差し出してくる。それは風呂敷に包まれた何かと、見覚えのある缶だ。
「これは?」
「弁当とハーブティーだそうだ。お前、この間鈴が千隼に弁当作ってるって聞いて「私も弁当の一つでもあればもっと仕事に精が出るかもしれません」みたいな事言ったんだろ? それ聞いて鈴はお前にも毎日作る事にしたそうだ。出来た嫁さんだなぁ?」
千尋はそれを聞いて風呂敷と缶を抱きしめた。栄の言う通り、鈴は素晴らしい花嫁だ。
「私には本当に勿体ないぐらいの方なのです。そうですか……わざわざ届けてくださってありがとうございました」
「ああ。じゃな」
それだけ言うと栄は職場を出ていく。
千尋がちらりと時計を見ると、ちょうど昼時だ。いそいそとお茶の用意をして風呂敷を開けると、そこには経木に包まれたおにぎりが数種類並んでいる。ついでに小さなメモも。
「右から梅、おかか、昆布です。美味しく食べてくれたら嬉しいです。いつもお仕事ありがとうございます――ああ、もう!」
千尋は思わず両手で顔を覆った。甘いような疼くような気持ちが胸の奥から込み上げてくる。こんな事では本当にいつまで経っても婚姻色が消える事は無いのではないだろうか。
千尋は手を合わせておにぎりを一つずつ食べ始める。
いつの頃からか鈴は千尋の好みを覚え、どの料理も千尋の好みに合うように調整してくれていた。それが今や神森家の味になっている事に気付いた時、千尋がどれほど感動したか鈴は知らないだろう。
千尋はおにぎりを色んな意味で噛み締めながら食べ終えると、メモ用紙を大切に懐に仕舞ってその日は一日上機嫌で仕事をする事が出来た。
仕事を終えて屋敷に戻ると、いつものように鈴と千隼が出迎えてくれる。
「おかえりなさい! 千尋さま」
「ぱぱーおかーり!」
駆け寄ってくる千隼を片手で抱き上げてもう片方の腕を広げると、鈴が顔を輝かせて飛び込んできた。この瞬間にいつも最高の幸せを感じる千尋だ。
「ただいま戻りました。鈴さん、お弁当ありがとうございました。とても美味しかったですし、嬉しかったです」
「喜んでいただけて良かったです。崩れたりしていませんでしたか?」
「ええ、大丈夫でした。綺麗な三角でしたよ」
笑顔で言うと鈴がはにかんだように笑う。その顔がもう愛しくて仕方ない。