相手は犬だ。妊娠なんてありえない。夫だと認めれられる訳がない。それでも側を離れられない。それは果たして約束を果たす為だろうか? それともいつの間にかこの犬を愛してしまっているのだろうか?
もしかしたら伏姫はこんな葛藤を抱いていたのかもしれない。家を守るためだと言いながら、本当は八房の元へ行きたかったのかもしれない。
千尋は鈴の髪を耳にかけてそっと抱き寄せた。
「龍の私と人間のあなたが恋に落ちたように、この二人もきっとそうだったと思いたいです。今は」
「千尋さま……そう、ですよね……きっと、この二人も愛し合っていた。私もそう思いたいです」
千尋は胸にすり寄ってくる鈴を強く抱きしめた。
種族が違う事を最初はあれほど躊躇ったのに、一度受け入れてしまえば鈴ほどの人は居ないと思える。
鈴は確かにあれほど探し求めていた千尋の運命の番だったのだ。
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千尋は今日もちゃんと朝起きて、鏡を見て苦笑いしながら仕事に行った。
「あれはもう、名物だね」
「もう自分も見慣れちゃいました。むしろ何かあれが出てないと大丈夫かなって思っちゃうんですよ」
そんな事を言いながら雅と喜兵衛は鈴が洗った皿を拭きながら言う。
千尋の顔に今日もしっかり婚姻色が出ていたからだ。
鈴が都にやってきてからというもの、千尋の顔に婚姻色が出ない日の方が珍しいと思う程度には千尋はしょっちゅう婚姻色を出している。
「もう結婚してるし既にこんな立派な息子もいるってのにな」
話が聞こえていたのか笑いながら炊事場にやってきたのは弥七だ。その腕には千隼が抱かれていて、その千隼は大きな白菜を抱えている。
「まま、これあげる。ちはやがとった!」
「ありがとう、千隼。それじゃあ今日はロールキャベツかな?」
「うん!」
千尋も大好きなロールキャベツはこの時期の白菜で作ると甘くて美味しい。
鈴の言葉に千隼は喜んで両手を上げた。その拍子に白菜を離してしまい、慌てて雅が受け止める。
「千隼もあれだね。鈴と一緒で夢中になるともう一個の事を忘れるんだね」
笑いながら白菜を受け止めた雅に鈴は頬を膨らませる。
「そ、そんな事はありません! 2つぐらいは一緒に出来ます!」
「そうかい?」
おかしそうに肩を揺らす雅に鈴は思わず拗ねたが、そんな鈴を見て千隼が真似をするので慌てて顔を戻した。
雅の前ではついつい以前のようにすぐに甘えたくなってしまう。
雅もそれに気付いているのか、千隼が寝たら最近は一緒にハーブティーを飲みながら談笑するのが日課だ。
「それにしても羽鳥の行動力は凄いね。でもあいつ最近までは今ほど評価されてなかったんだろ?」
雅の問いかけに鈴と弥七と喜兵衛が首を傾げる。
「不思議ですよね。相当優秀な方だと思うのに」
「やっぱあれなんじゃないか。ほら、人間との混血だから」
「……それだけの理由で……」
混血の羽鳥でさえそんな目に遭っていたのなら、丸ごと人間の鈴など、どうしたら良いのだ。
「龍にとっちゃ大問題だったんだよ。前王みたいに龍至上主義な奴らが多かった。だからどんどん地上から入ってくる文化に恐れたんだ」
そこへ大きな体を折り曲げて栄が炊事場に入ってきた。
「栄さん! どうでしたか? 千尋さまはお弁当喜んでらっしゃいましたか?」
「そりゃもう! 満面の笑みだ」
今日、鈴は都に来て初めて千尋にお弁当を作った。本当は早起きして作りたかったが、朝に千尋の腕の中から抜け出すことが出来なかったのだ。
それでもどうしてもお弁当を作りたくて、ちょうど城下町に行く用事があると言っていた栄に弁当を預けたという次第である。
「そうでしたか! それは良かったです。ついでにハーブティーも入れておいたのですが、そちらも喜んでもらえるでしょうか?」
「喜ばねぇわけないだろ。あんたのハーブティーが本気で都で天下取るって思ってるような奴だぞ」
豪快に笑いながらそんな事を言う栄に鈴も釣られて笑ってしまう。
そこへちょうど薪割りを済ませた楽が戻ってきた。最近このぐらいの時間になると皆がここへ一度勢揃いする。
「あ~腹減った~なんかない~?」
「楽さんもお疲れ様でした。焼きおにぎりがありますよ。食べますか?」
「おお! 食べる食べる! で、皆してどしたの?」
楽はそう言って作業台の上に置いてある焼きおにぎりを鷲掴みにしてすぐさま口に放り込む。
そんな楽の頭を栄がおかしそうに撫でた。
「いやな、龍ってのがどれほど龍至上主義だったかって話ししてたんだよ。楽も子どもの頃に散々な目に遭ってるもんな」
「ああ……龍の中でも明確に地位が分かれてんだ。前にも言ったけど、俺や栄さんみたいな火龍の扱いなんざ、そりゃひでぇんだぞ」
「そうですよね……でもこんな事を言ったら楽さんに叱られるかもしれませんが、楽さんが千尋さまに拾われて本当に良かったって思うんです……」
楽には悪いが、もう楽は立派な鈴の家族なのだ。