「千尋さま、もしかして奥様が襲われたのって椿通りですか?」
「ええ。何か知っているのですか?」
「知っているって程ではないんですけど、あそこにあの時追放になった娘の家があったんですよ」
「あの時追放になった娘の家?」
「はい。あなたにずっと懸想していた、近所でも有名な龍だったそうです。地上に攻撃をした龍の中に居ました」
「……その方は追放になったのですよね?」
「はい。ただ、その娘には番が居ました。幼馴染の風龍です」
それを聞いて千尋は腕を組んで頷いた。
部下の話が正しいのであれば番の龍が追放処分を受けたので、その元凶になった鈴をここ数日狙っていたという事なのだろう。
「あなたはよくそんな話を知っていましたね。家が近所なのですか?」
「いえ。前に居酒屋で飲んでたらそんな話をしていた奴らが居たんです。椿通りの哀れな風龍だって」
「哀れ、ですか」
「哀れですよ。ずっと片思いをしていてやっと番になれたのに、番はあなたに夢中だったのですから」
「それは私のあずかり知らぬ事です。そんな事でいちいち妻を攻撃されては敵いません」
「まぁ、そりゃそうなんですけど。もしかしたらそいつかなって思っただけです」
部下の情報が確かかどうかは分からないが一応警戒しておいた方が良さそうだ。
その夜、千尋は夕食後に栄を部屋に呼んで部下の話していた風龍を知っているか尋ねたが、あいにく知らないと言われてしまった。
ただ、もしかしたら羽鳥なら何か分かるんじゃないかと言われて千尋はすぐさま鏡を使う。
『こんな時間にどうしたの?』
もう寝る準備をしていたのか、羽鳥は珍しく髪を解いていた。
「すみません、遅くに。少しお聞きしたい事があるのですが」
千尋がそこまで言うと、羽鳥は欠伸を噛み殺しながら口を開く。
『もしかして鈴さんがここ数日狙われてるって話?』
「知っているのですか?」
『まぁね。僕の目と耳を舐めないで欲しいな。犯人は椿通りの裏路地に住む風龍だよ。もう出頭手続きはしてあるけど――』
どうやら部下の聞いた噂話は正しかったようだ。
「流石ですね。ありがとうございます。このまま放って置くと遅かれ早かれ雅の逆鱗バシーンの刑を食らうと思うので、早めに出頭するよう伝えておいてください」
『それは怖いね。それも一緒に伝えておくよ。ていうかさ、鈴さんなら君の加護があるんだから石ぐらいどうって事ないでしょ?』
「それはそうですが、私の加護は暴走しがちですから。万が一鈴さんの目の前で相手の急所になど刺さったりしたら大変でしょう?」
以前は鈴の見えない所で龍の急所を貫いた加護だが、もしも鈴の目の前でそんな事になったらと思うとゾッとする。
千尋の言葉に羽鳥は納得したように頷いた。
『それはそうだね。とりあえず今出来る報告はそれだけだよ』
「そうですか。ありがとうございます。おやすみなさい」
短い挨拶をして鏡を切ると、千尋はそのまま寝室に移動した。
きっと鈴はもう寝ているだろう。そう思っていたのに――。
「まだ起きていたのですか?」
「あ、千尋さま。遅くまでお疲れ様です。丁度本が面白い所に差し掛かってしまって、寝るタイミンを逃してしまいました」
照れたように微笑む鈴の手にはあの旅行で買った本が握られている。
そんな鈴を見て千尋は思わず微笑むと、ベッドに近寄って鈴の隣に寝転んだ。
「そんなに面白いですか?」
「はい! 千尋さまは伏姫と八房は本当は愛し合っていたと思いますか?」
「どうでしょうね。八房は姫を愛していたかもしれませんね。ですが姫はどうでしょうか」
「やっぱり……犬だから?」
「そうですね。それもあるでしょう。ただ何らかの愛はあったと思います。でなければほんの一時でも気を交わらせる事は出来ません。姫は最後に自害をしますが、口ではあんな風に言っていても、八房の子を世に生みたかったのではないかなと思っています。まぁ、これは願望ですね」
同じ本を読んでこんな風に誰かと語るのはこんなにも楽しいと気付かせてくれたのは鈴だ。
千尋が鈴の方に身体を向けると、鈴もまた千尋の方に身体を向ける。
「願望なのですか?」
「ええ。願望です。初めてその本を読んだ時、私は姫に同情をしました。ですがあなたと出会ってそうは思えなくなったのです。何らかの形で良いから愛し合っていて欲しかった。あなたと私のように」
そう言って千尋はそっと鈴の頬を撫でた。
まさか自分が異種婚をするだなんて夢にも思っていなかった頃、犬に嫁がされた姫に同情した。
けれど龍である自分が人間の少女に恋してしまった時に初めて、伏姫の気持ちが分かった気がしたのだ。