「千隼くん、少しだけ人の姿に戻ってくれたら嬉しいな」
鈴は困ったような顔をして一生懸命に風呂から出てきた千隼の体を拭いている。
千隼が部屋に入るなり、内風呂を見て龍の姿のまま飛び込んでしまったのだ。
「や!」
「そっか~……鬣がなかなか乾かない……」
ブツブツ言いながら必死になって鬣を乾かしている鈴を見て千尋が近寄ると、何も言っていないのに千隼が人の姿に戻った。
「あれ? 千隼?」
「パパきた」
「あ、なるほど」
鈴は笑いを噛み殺しながら千尋にタオルを渡してくる。いつもそう。千尋が千隼を拭く時は必ず人型に戻るのだ。
以前、逃げ回る千隼の肩を捕まえてどうして風呂上がりに人型に戻るのかを延々と説明したからかもしれない。
そんな千尋を見て雅と栄は呆れ楽や喜兵衛、弥七は青ざめていたが、鈴だけは「amazing!」と喜んでいた。いつだって鈴だけは千尋の味方でいてくれる。それも少しも変わっていない。
「ありがとうございます、千尋さま」
「いいえ。千隼は賢いですね。こんなに小さくても言ったことをちゃんと覚えているのですから。将来は是非とも私の元で働いて欲しいですね」
親バカだと言われても良い。千尋は常々千隼をこうして褒めている。
両親という存在の記憶すら無かった千尋は、正直に言うと千隼が生まれた時に最初はどう接すれば良いのか分からなかった。
けれど鈴を見て、雅や楽達を見てありのままで良いのだと気づいた。無条件に可愛いく思ったり抱きしめたいと思っても良いのだと。
けれどそれは鈴との子どもだからだと言う事もよく分かっている。
千尋は千隼を拭き終えて軽く抱きしめ頬にキスをすると、千隼も嬉しそうにキスを返してくれた。
「さて、では次はママですね」
「え? 私はどこも濡れてませんが……」
「キスとハグの方です。ほら」
そう言って両手を広げると鈴は嬉しそうに、けれど恥ずかしそうに寄ってきて千尋の胸に顔を埋めてくる。
「昔の私はこういう接触を他人とするのを嫌ったのですが、あなたと過ごすようになってからこういう愛情表現もあるのだと言う事を知りました。地上ではまだ許されては居なかった文化ですが、都だと気兼ねなく出来て良いですね」
鈴を抱きしめながら言うと、鈴が腕の中で笑った。
「都でも皆さん振り返りますよ?」
「そうですか? それは多分鈴さんに見惚れているのですよ」
「いえ! 千尋さまに見惚れているのです!」
「いいえ、鈴さんですよ」
「千尋さまです!」
いつものように他愛もない言い合いをしていても、今日は誰も止める人が居ない。そう思っていたのに。
「たわけるのめっ! みゃーびとにいたんにいうよ!」
千尋達の間に割り込んできた千隼は、千尋と鈴の身体を引き剥がそうと必死になっている。そんな千隼の行動に千尋は思わず鈴と顔を見合わせて噴き出してしまった。
「これはこれは。まるで雅と楽が融合したようですね」
「はい! 千隼の前で戯けると言いつけられるみたいです」
我が子に叱られて笑いながら鈴を放すと、千隼はようやく満足したように頷く。こんな仕草はまるで弥七と喜兵衛、そして栄だ。
「千隼を見ていると、皆で育てているのだなと実感しますね」
旅行という非現実な一日の中に垣間見えた千隼の成長と鈴の愛情を再認識した千尋は、最終的には「雅達には秘密ですよ」と言って二人を抱きしめた。
♡
二泊三日の生まれて初めての旅行は、鈴にとってとても良い刺激になったようだ。
「今日は随分とご機嫌じゃないか」
洗濯をしていると、隣でシーツを干していた雅が笑顔で言う。
「はい! 今朝あの旅行の夢を見たんです!」
「あんた、それ旅行終わってから毎日言ってないかい?」
苦笑いを浮かべてそんな事を言う雅に鈴はコクリと頷いた。
「久しぶりに千尋さまとずっと一緒だったからだと思います」
笑顔で答えると雅は呆れたように肩を揺らした。
地上で過ごしていた時は千尋の仕事場は自宅だったので昼ご飯も一緒に食べる事が出来たし、庭で作業しているとたまに様子を見に来てくれたりもした。
けれど都ではそうはいかない。千尋は毎日朝早くから職場に出向き、夕方よりも少し遅めに帰ってくる。
千尋は仕事を頑張ってくれているのだ。寂しいなどとは言えない。それに早く慣れなければいけないと思うのに、なかなか気持ちが追いつかないでいた。
「あんた達は本当に毎度毎度同じような事を言ってるね」
「そうなんですか?」
「そうだよ。千尋は千尋でこの間栄に愚痴ってたらしいよ。あんたが足りない。仕事をしていて窓の外を見ても見えるのは味気ない建物ばかりだし、どれだけ耳を澄ませても鈴の声が聞こえないって。そりゃそうだろって話なんだけど、まぁ千尋も言わないだけで案外あんたと同じように毎日旅行の夢見てるかもね」