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第414話

「ああ、彼か。あの子優秀だよね」

「ええ、優秀なのです。ただ私の事は他の皆と同じで苦手のようですが」

 いつまで経っても千尋もまた都に馴染めない。それはずっと変わらない。

「まぁ、それは仕方ないね。君は本当に他人に興味を示さないんだから」

「そうですね。それはちゃんと自覚していますよ。でも仕方ありません。彼が辞めたらもう、うちに部下はいらないです」

「……君ぐらいだよ、そんな事言う高官は」

 苦笑いを浮かべて流星が書類を丁寧に折り畳んで封筒に仕舞う。

「仕方ないです。いっそ1人の方が気が楽ですから。それではお願いします」

「了解。気をつけてね」

 こうして千尋は鈴には内緒で旅行の準備をし始め、そして旅行の前日に千尋は二人の寝室ですっかり寝る準備を終えた鈴に向き直る。

「鈴さん、お話があります」

 鈴は千尋の言葉に髪を乾かしていた手を止めてこちらを振り返った。

「何でしょうか?」

 こんな風に改まって千尋が何かを言い出す時は重大な事を話す時だと思ったのか、鈴がゴクリと息を飲んだ。

「明日、私と鈴さんと千隼の三人で二泊三日の旅行に行こうと思います」

 真剣な口調で言うと、鈴は一瞬ポカンとした表情で千尋を見つめ小さな声で呟く。

「旅行……?」

「ええ。旅行です。とは言えさほど遠くではないですよ? 近場で申し訳ないのですが、温泉に行きましょう」

「……ほ、本当に?」

 千尋の言葉に鈴の声が涙声になる。よく見るとブラシを持っている手が小刻みに震えている。

「本当です。実を言うと鈴さんと千隼の荷造りは既に雅に頼んで――っ!」

 最後まで千尋が言い終わらないうちに突然鈴が正面から飛びついてきた。こんな事を鈴がするのは珍しくて驚きながらも鈴の身体を抱きとめると、鈴は千尋の胸に顔を埋めて涙目でこちらを見上げてくる。

「う、嬉しいです! わた、私、旅行ってした事なくて! 温泉なんてそんな贅沢をしても良いのですか!?」

 早口で話し始める鈴が堪らなく愛しくて鈴を抱きしめると、その耳元で囁く。

「もちろんです。鈴さんはただでさえ滅多にワガママを言わないのですから、こんな時ぐらいは羽目を外して楽しんでくださいね」

「は、はい! 嬉しいです、千尋さま。ありがとうございます!」

 それから鈴は千尋の胸の中でずっと旅行について語っていた。そんなあまりの鈴の可愛さについつい千尋が鈴に手を出してしまったのは言うまでもない。


 いざ旅行が始まると鈴はずっと上機嫌だった。

 都にやって来てからたまに陰りを見せていた鈴だったが、今日はそんな事は一切無い。

「楽しいですか? 鈴さん」

 温泉街に立ち並ぶ土産物屋を歩いている最中に問いかけると、鈴は先ほど買った水龍の飴を握りしめてまるで子どものような笑顔で頷く。

「はい! 地上でも見たことの無い物が沢山です!」

 そう言って鈴は店先に並んでいるお土産を見て微笑む。

 それはそうだろう。ここらへんの土産はまだ江戸時代ぐらいに流行った物ばかりなのだから。

 けれどそんな事を言って水を指すのは嫌なので千尋は鈴に言う。

「鈴さんにとっては目新しい物ばかりかもしれませんね。これなんて見たことも無いでしょう?」

 そう言って手に取ったのは面子だ。

「こ、これは何ですか? 土で出来た……人形でしょうか?」

「いいえ。これは面子なんですよ。泥面子と言います。紙で出来た面子と違って、穴に投げ入れたり他の人の物を弾き飛ばしたりするんですけどね」

 千尋の説明を聞いて鈴は目を輝かせて千隼にそれを見せた。

 すると千隼は手を伸ばして触ろうとするので、それを見た鈴がすぐさま小銭を出して泥面子を買って千隼に手渡す。これが鈴の今日初めての買い物だ。

「大事にしてね、千隼」

「うん!」

「千隼にあげるのですか?」

「はい。千隼にとっても初めての旅行ですから。何か形に残る物を買ってあげたいなって」

 そんな事を言いながら鈴の視線は少し先に移っている。何があるのかと思い振り返ると、そこには本が積まれていた。

「あれが気になるのですか?」

「え? あ、いえ! ……すみません、はい」

 恥ずかしそうに俯いた鈴を見て千尋は鈴の手を取り陳列されている本を見ると、そこには古い書籍がズラリと並んでいる。千尋はその一冊を手に取り目を細めた。

「南総里見八犬伝ですね。面白い作品ですよ」

「都の方が書かれたのですか?」

「いいえ。地上の方です。江戸時代の文豪、曲亭馬琴という方の作品です。読んでみますか?」

「はい!」

 本が大好きな鈴はこんな所へ来ても本をお土産にするつもりらしい。

 宝石店や反物の店もあるのにあえて本を選ぶのが鈴らしくて思わず千尋は笑ってしまった。

 それから手を繋いで土産物を見ながら宿へ向かうと、今度は宿の部屋を見て鈴が感嘆の声をあげる。

「凄いお部屋ですね! 千尋さま」

「ええ、本当に。息吹に予約を頼んだのですが、どうやら相当良い部屋を用意してくれたようです。これは料理も期待出来そうですね」

 鈴は素直だ。どんな時でも千尋の思っていた以上の反応を返してくれる。それは地上に居た時からずっとだ。

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