飴屋から少しだけ周りを散策してお土産を買い15分ほど歩くと、目の前に川を挟んで大きな和風の作りの建物が見えた。屋根は柱は朱色に塗られていて、何となく大きな神社を連想させる。
「凄い!」
思わず鈴が声を上げると、千尋は笑みを浮かべて頷いた。
「ええ、今日の宿はあそこです。料理と庭園が売りなのだと流星が言っていましたよ」
「流星さまが?」
「はい。あの宿は息吹の本当のご両親が経営されているのです。都の中でもそれはもう人気の宿なのですよ」
「そうなのですか? そんな所に泊まる事が出来るなんて光栄です!」
「実を言うと以前からずっと誘われてはいたのですが、1人で泊まっても仕方がないと思ってお断りをしていたのですよ。ですが鈴さんが都へやってきてそろそろ慣れてきた頃かと思い、今回は私からお願いをしたのです」
「!」
それを聞いて鈴は思わず涙を浮かべた。千尋は都にやってきた鈴が困らないよう、ずっと気を遣ってくれているのを鈴はよく知っている。
鈴は千尋の腕に少しだけ寄り添って千尋を見上げた。
「ありがとうございます、千尋さま。初めての旅行はとても素晴らしい旅行になりそうです」
「私もですよ。鈴さんと同じで私も旅行など生まれて初めてです。料理も有名だそうなので楽しみましょうね」
「はい! 千隼も楽しもうね」
「はい!」
千隼は鈴の真似をして手を上げると、下ろせと言って手足をバタつかせる。そんな千隼を下ろし、上機嫌で走り出した千隼を見つめていた。
大きな橋を渡って宿に到着すると、あちこちから宿の人達が現れて千尋と鈴を取り囲み挨拶をしてくれる。
そんな歓迎を受けつつ案内された部屋を見て、鈴はさらに感嘆の声を上げた。
「す、凄い……」
これはお城? 思わずそう思うほど良い部屋だ。開け放たれた窓の外には見事な庭園が広がっていて、室内は純和風で木の良い香りがする。
部屋から張り出した場所には小さな温泉があり、こんこんとお湯が湧き出て湯気が立っていた。
「部屋に風呂もあるのですね。鈴さん、後で一緒に入りましょうね?」
にこやかに千尋に言われて鈴は指先をもじもじと弄りながら俯いて頷く。こんな所でぐらい、いつもと違うことをしたい。
そう思っていた矢先、温泉を見つけた千隼が龍の姿のまま勢いよく飛び込んだ。
「わー! 千隼! お風呂まだだよ!?」
「ぬくいー!」
嬉しそうに温泉の中で泳ぐ千隼を見て鈴が慌てていると、隣で千尋はおかしそうに肩を揺らしている。
「いつも思うのですが、千隼は皆に愛されているからか、したい放題ですね」
「えっと、い、一応叱ってはいるのですが……甘いのでしょうか?」
「そういう意味ではありませんよ。ただ、天真爛漫だなと思ったのです。純粋で無垢でこの世の理不尽さなど微塵も感じさせません。それは偏にあなたが、皆が惜しみなく千隼に愛情を注いでいる証拠です。やはり子どもはこうでなければ」
腕を組んでそんな事を言う千尋を見て、鈴は頷いた。それは千尋の言う通りだと、そう思ったから。
♤
時は少しだけ遡り、今回は生まれて初めての旅行という事でこの計画を進めた頃から千尋はずっとソワソワしていた。こんな風に気持が沸き立つ事など一生無いと思っていたが、鈴と出会ってからというもの、ずっとこの調子だ。
王の執務室が大分板についてきた流星は、容赦なく目の前に積まれていく書類を見てペンを止めため息を落としている。
一方千尋は淡々と流星の前に書類を重ねていく。
これらは全て千尋の部署を無事に通過した法改正の書類だ。これを流星が吟味し、その後、高官達の半数以上の票を集めることでようやく法案は通る。
「これで最後です。お願いしますね。ああ、それから私の休暇の件もお願いします」
「はいはい。で、息吹はなんて?」
「もちろん快諾してくれましたよ。元々ずっと誘われていましたからね。まぁその理由は未だによく分かりませんが」
息吹の本当の両親は代々続く老舗旅館を経営している。そこに泊まりに来いと息吹にずっと言われ続けてきたのだが、理由が「千尋が泊まりに来たら絶対に繁盛するから」などという訳の分からない物だった。千尋が泊まったぐらいで繁盛する店なら、もうとっくに大繁盛しているはずだ。
けれど流星はそれを聞いて苦笑いを浮かべた。
「まぁそれは君の人気にあやかりたいって事なんだろうけど、あんなに断ってたのによく決断したね」
「実は鈴さんは生まれて一度も旅行というものをした事が無いそうなんですよね。言われてみれば私もした事がないし、千隼も大きくなってきたのでしてみようかな、と」
「なるほど。君は相変わらず鈴さんを中心に生きてるね」
「私の唯一の生きがいなので。そういう訳なので、週末から休みますのでよろしくお願いします。私の穴は部下が埋めてくれると思います」
数々の部下が辞めてしまった千尋だが、唯一今の部下だけは残ってくれている。彼はなかなか優秀だ。覚えも早いし仕事も早い。とはいえ未だに彼の名を千尋は覚えてはないのだが。