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第409話

 鈴の嫁ぎ先が決まったのは、16になってすぐの事だ。嫁ぎ先は巷でも悪い意味で有名な神森家という侯爵家で、そのあまりの実態の知れなさに皆が怯えていた。

 既にこの町でもいくつもの家が神森家から縁談の話が来ていて、そのどれも一方的に破断にされているらしい。

 鈴は洗濯をしながら勇の言葉を何度も何度も心の中で反芻していた。

「どこへ行っても同じ事。ただ頑張る。それだけだよ、鈴」

 自分にそう言い聞かせて神森家に嫁ぐまでの僅かな時間を佐伯家への最後の奉仕として精一杯こなした。

 決して上がる事は許されなかった母屋を柱までピカピカに拭き、食器も顔が映りそうなほど磨いた。お手洗いを掃除し、洗濯物もいつもよりも丁寧に汚れを落とす。

 最後に蔵に戻ると、8年間使い古した布団を干して掃除をする。

「ありがとう。こんな私をずっと雨風から守ってくれて。もうここには戻れないけど、誰かが定期的に掃除してくれるといいな」

 狭くて暗くて不便だったけど、8年間という長い年月を過ごした場所だ。いざ離れるとなるとこんなにも寂しい。

 鈴は大きめの風呂敷に数少ない着物を入れる。それから両親の形見も。

「dad,mum……私は明日、神森家というお屋敷に嫁ぐよ。でもきっとそこも追い出されてしまうと思う。その時は思い切って街に出ようと思うんだ。だからどうか私の事を見守っててね。絶対、絶対に幸せになるから。それでいつか笑顔で二人の所に行くからね」

 形見を握りしめて呟くと、不意に涙がこぼれ落ちた。

 もうここへは戻らない。久子はこの話が破断になったら鈴を死ぬまで蔵に閉じ込めるなどと言っていたが、それだけは絶対に嫌だ。そんな事になったら一生鈴は佐伯家にお世話になるだけのお荷物になってしまう。

「私、ちゃんと一人でも生き抜くよ。だってここはmumとdadが出会った国だもん」

 あんなにも優しかった両親が出会った国だ。優しい国に決まっている。鈴が自分に言い聞かせて涙を擦っていると、蔵の外からカタンと音がした。

 この時間はもう蔵には鍵をかけられているはずだ。それなのに誰だろう? 

 鈴は蔵のドアに近寄って何気なくドアに手をかけると、何故かかかっているはずの鍵が開いている。

「誰かいるの?」

 外に向かって声をかけても、誰も居ないし辺りは既に真っ暗だ。

 何だったんだろう? そう思いつつ足元を見ると、そこには見慣れた風呂敷とメモが置いてある。

 鈴はそのメモと風呂敷を持って蔵に入ると、小さくなったロウソクに火をつけた。

 メモには走り書きで『ニゲロ』と書かれていたが、鈴にはそれが読めない。

「なんて書いてあるんだろう……?」

 不思議に思いつつ風呂敷を開けると、そこには歪なおにぎりと卵焼き。そしていつもよりも多めの薬が入った瓶が包まれていた。

「もしかして食べろって書いてあるのかな……ありがとう。嬉しい……」

 面と向かってこの家で鈴に優しくしてくれる人は居ない。

 けれどこの8年間、毎朝置いてあった歪なおにぎりも殻入りの卵焼きも鈴の心の拠り所だった。

 荷物を詰めた風呂敷をもう一度解いて薬の瓶を詰め、泣きながらおにぎりを頬張る。

 鈴にとって最後の佐伯家での思い出は、十分すぎるほど贅沢なものになった。

 翌日、鈴は佐伯家をたった一人で旅立った。これからどんな人生が待っているのか見当もつかないけれど、どこへ行ってもやることは同じだ。

 一生懸命に生きていれば、きっと神様は見ていてくれる。そう信じて毎日を暮らすしかないのだから。


 千尋が横領に加担したという噂は、その日のうちに都全土に知れ渡った。ついでに千尋がとうとう初を番にしたという話も。

「千尋くん! どういう事!? 君は本当に誰かに暗号を教えたの!? ていうか、番の話も本当なの!?」

「千尋! これは由々しき事態だぞ! 詳細を説明しろ!」

「まだ千尋がやったと決まった訳じゃないだろう? 皆、少し興奮しすぎだ」

 そんな中、屋敷には流星、千眼、謙信が事の真相を知るために尋ねてきていた。

「私にも何が何だかさっぱり分からないのに、説明のしようもありませんよ」

 冷めた口調で言うと三人は押し黙る。その間にも千尋は着々と身の回りの物を片付けていた。それを見て流星が首を傾げている。

「さっきから何してるの?」

「何とは?」

「いや、何か鏡とか仕事道具とか箱に詰めてさ︙︙まるで夜逃げでもするみたいなさ」

「ああ、これですか? 夜逃げとは違いますが、近々私は引っ越す予定なので」

 言いながら荷物を詰める千尋に驚いたのは栄だ。

「お、おい! どういう事だよ? 何も聞いてないぞ!」

「まだ決まってませんからね。でもどのみち引っ越すことにはなりますよ、きっと」

 ここから逃げ出せるのであればどこでも良い。最近はそんな事ばかり考えていた千尋だが、機会は思いの外早くやってきた。

 最後の荷物を詰め終えた千尋は振り返って皆を見渡して笑顔を浮かべる。

「それでは皆さん、これまでお世話になりました。いつかまた会う日までさようなら」

「……は?」

「ど、どういう事だ?」

「……」

 唖然とした流星と栄とは違い、千眼と謙信は顔を見合わせて何か言いたげだったが、千尋は皆の脇をすり抜けてそのまま真っ直ぐ城に向かった。

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